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エロスの画家・高橋秀の物語(13)【アートのさんぽ】#30

愛と生の造形表現

 


 

イメージの自由な連合

 

画家の個展といえばひとつの画廊で開催するのが通常であるが、高橋秀はそれでは飽き足らず、1977年と1980年には複数の画廊で同時に開催し、さらには巡回するという大規模な個展の形式をとるようになる。

まず、1977年の個展から見てみると、4月に東京・銀座の東京画廊、京橋の南天子画廊で同時開催し、4月-5月に名古屋のギャラリーユマニテ、5月中旬に大阪の南天子画廊大阪店、5月下旬に広島のスズカワ画廊で開催した。作品数は28点で、しかも最大200×340㎝という大型の作品を含むもので、これまでで最大規模の個展となった。ここに《森の領域》《愉快に》《夕映の肖像》《騎士の肖像》《楽観主義者》《位相》《方程式》《コンスタンティノープルの罠》《瞑想》《夜明けの肖像》《イヴの果実》《アリスの月》《プレリュード》《鏡の中で》《生理学者》といったタイトルの作品を並べた。テーマ的には統一されたものというより、多様性を感じさせるものであった。しかし、その理念的なもの、手法的なものに、一貫したものが通底していた。そこを見抜いていたのは、展覧会カタログの序文を書いた美術評論家ネッロ・ポネンテであった。

 高橋の絵画には一見相反するような2つの理念がある。

ひとつは、慎重に配慮されたフォルムの限定であり、明確な幾何学的な配置、および平面の韻律化する理念である。

もうひとつは、自由なイメージの理念であり、最も内的な意識やそこから生まれる暗示がひとつの価値を与えるような理念である。

高橋は、複数のイメージを連合させることにより、それをより明確に、強くさせ、形態的にも変質させえることを認識していた。それは、西洋文化のなかに浸ることによって再認識した東洋的伝統から学んだ。とくに、幾つもの要素を自由に並べ、各要素の運動性がイメージを明確にしていく書芸術を意識化し、力動的な表象性を獲得していった。その絵画的語法は、幾何学的な構造と、イメージの心理的な強さをもつフォルム、これら2つが総合されることにより実現される。

ポネンテは、高橋のとくに技法的な問題を評価した。

「近年の動向に現れているように、絵画そのものの概念のみならず、その伝統的な種々の技法をも危地に追いやった今日の西洋的探求に関する現時点の矛盾を生き、その探求の多くの傾向が根拠としている厳格な概念性(コンセプチュアリティ)の理念を受け入れると同時に、必要とされる丹念な技巧に多大な注意を払いながら、1つの組成を「造営」し、建築する能力をいまなお有することを、みずから顕示している」と。

建築的な能力を高めることにより、暗示的なイメージの世界を顕在化させる「形象世界を創造し」、無垢のままに表現する可能性を探ってきたとした。

 このポネンテの指摘、つまり高橋の西洋でも東洋でもない独自の理念的な位置づけは、1974年のステンレス鏡面パネルにシルクスクリーンの版画集のための文章でもなされていた。

「高橋は、1963年以来のイタリアでの、彼の活動のあらゆる面において、西洋文化の完全なる一員であると思われているであろう。あるいは技術面において、絵画的な主題の構成の視点から考えて、彼は、東洋の伝統的な技法を何一つ引き継いでいないと思われるし、また実際引き継いでいない。…この偉大な版画家は、日本版画の伝統的ですばらしい技術からもっとも遠くにいる。いわば、芸術家の教育の証明や分別が完璧でさえあり、技術的な点から見ても、フォルムの点から見ても、すべて完全に現代的である。…イメージの意義を示し、深める手法のなかにある、西洋的でない独創的な考え方が現存している。確かに、高橋の作品は、東海道の美しい眺めを考えさせることも、結果として皆が認める強烈な装飾で何かを思い起こさせる効果を広げることもない」と。

 ポネンテが強調する、高橋の現代イタリアにおける独自の立場は、西洋美術を学び、その手法を踏まえつつも、彼の東洋的な理念をもっているということにある。

19世紀末の日本趣味ではなく、高橋が1960年代からイタリアに滞在し、その生活習慣、芸術的な伝統を身につけた上で、なおかつ滲み出てくる東洋的、日本的な理念に注目したのである。

とくに複数のイメージを自由に繋ぎ合わせ、総合的にして現代的で東洋的なもの、つまり書芸術における文字と文字との自由な連結法から吸収されたようなエッセンスがある。しかも、それが細かな技術的問題をひとつずつ解決しながら、あたかも建築のように積み重ねる技術的な裏づけを持った能力に支えられている。ゆえに人間や自然の原型的なるものを、「無垢のまま」に表現することが可能になったというのである。

 

抽象的なフォルムと色面の結合


 このポネンテの高橋秀論を下敷きとして、東京画廊、南天子画廊での個展を見た井関正昭の批評が美術雑誌『みずゑ』(1977年6月号)に掲載された。

高橋が出会った1960年代初期のイタリア美術は、空間主義のフォンタナと、その仲間たち、ドーヴァ、クリッパ、マンゾーニ、カポグロッシ、ノヴェッリたちのアンフォルメルから記号的行為主義にいたる国際的な造形の探求の最も盛んな時期にあった。

井関は述べる。

「この雰囲気の中で、高橋秀の探求は、フォルムを限定するための注意深い配慮と、自然発生的な人間のもつ自由なイメージの暗示――しばしばエロティックな――との充実した総合に向かうことになる。日本の今回の個展の目録でネッロ・ポネンテがいっているように「幾何学と心理的態度との結合」である」と。

 抽象的なフォルムと色面の結合によって、新しい心理的な含蓄のある自由なイメージ生み出すことになる。この新しい絵画的語法により、輝きをもった色彩が、そのフォルムに組み入れられ、絵画表面に大きなヴォリュームを構成し、空間-客体を通して作者の造形的な観念の本質が出現される。

この高橋秀の絵画的語法には、1960年代の幾何学的な純粋なフォルムと純粋な色彩を基礎にした具体主義のブルーノ・ムナーリやドラーツィオ、カステッラーニといった作家たちの存在の影響も考えられる。

 イタリア人にとって空間とは、余韻や余白によって生まれる精神的な時間の流れや主観的な空間の中でとらえられる東洋的な認識とは全く対照的に、一定の距離において見る充実した客観的な空間であり、自己との対立から直覚的に認識する無限の拡がりである。こうした高橋の絵画的な語法は、空間の対立を変形するという手のこんだ遊びの中で、イタリア人にとって非常にわかり易いのもとなっていった。

 例えば、この展覧会に出品された《生理学者》(1976年、図)と《鏡の中の花嫁》(1976年、図)を比較してみたい。


高橋秀《生理学者》1976年


高橋秀《鏡の中の花嫁》1976年

《生理学者》は、イソギンチャクの太い触手のようなもの複数からなる有機的フォルム2つが、シンメトリカルに配置された構成の作品である。画面の中を走るすべての曲線を延長していくと、画面全体の中心点に交わるようにできていて、幾何学的に計算されている。

といって冷徹な感じは全くなく、むしろ触手の先端が赤らむほどに温かさを感じる作品となっている。「生理学者」というタイトルも謎かけのように知的に、詩的に投げかけてくるものがある。

一方の《鏡の中で》は、角の丸い矩形から触手が伸びるようなフォルムが、アンシメトリカルに構成された作品である。アンシンメトリーだけに動きを感じさせるものであるが、全体的な印象としては、《生理学者》と共通したものをもっている。

それもそのはずで、詳細に観察すると、触手の部分の原型が全く同じものが使われていることが分かってくる。これは、高橋のよく使う手法で、ひとつの原型を使って、色を変えたり、反転させたり、逆転させたり、他のフォルムと連結させたりする豊富なヴァリエーションである。

この手法を使うことにより、ひとつの発想から、次々とヴァリエーションが浮かびあがり、さらに連鎖的にイメージが連合し、増殖していくことになるのである。それが、まさにポネンテのいうところの「イメージの自由な連合」であったのである。

 

愛と生の暗示的な造形表現

 

1980年の個展は、10月下旬に広島のスズカワ画廊からスタートし、11月中旬に大阪の南天子画廊大阪店、11月下旬に名古屋のギャラリーユマニテと伽藍洞ギャラリー、翌年1月中旬に東京・銀座の東京画廊と京橋の南天子画廊という具合に巡回した。ここでも最大200×340㎝という大型作品を含む34点の作品が展示された。

タイトルとしては、《誇大妄想》《形態学》《無邪気な誘惑》《アー》《無言のメッセージ》《大いなる出会い》などさまざまであるが、そのフォルムは前回よりもシンプルになり、色彩的にも黒、白、赤という限定的なものに集約し、構成もシンメトリカルなものが多くなっていた。

 美術評論家ジョルジョ・デ・マルキスは展覧会図録のなか次のように述べた。

「自然のある種の形態が本質的にそうである様に、これ等のフォルムは、殆んどシンメトリカルに対をなして居り、このシンメトリーは、一本の中心軸によって、全体の統一の為の相対的、補足的な意味合いを持たされる。それぞれのフォルムは、わずかに張り出さしている、というより、組み込まれたフォルムの輪郭が明確な溝で区切られて居り、その表面は、白か、或いは黒の単色になる、張りつめた皮膚を思わせる」と。

とくに今回の展覧会に特徴的に見られる、あらゆるフォルムを総合化し、色彩を含めて単純化していく高橋の手法は、複数の識者が指摘しているように、西洋文化の中で生活し、その伝統を身につけた上で、にじみ出てくる東洋の本質的な考え方がその中心に見られるからであろう。

 ネッロ・ポネンテは、再び展覧会図録に再び評論を寄せた。

「いまやこれは、高橋の作品を読み取り、西洋のアヴァンギャルドとかれの関係を理解する最も適した鍵の一つであるようにわたし〔に〕はみえる」とした上で、セザンヌやレジェ、モディリアーニ、ピカソ、マティスの作品を通して、高橋は、その構造的な提言の価値と、感覚の分析から発する認識の総合に達するかれらの能力を発見する。単純化されて本質的な言語構造の磨き上げと、構成の幾何学的総合による本質的に「構造的な」結論を導き出していく。しかしそこには、西洋文化とは違う、禅のような東洋の文化的伝統のもつ意味が含まれていたのである。ポール・ゴーギャンやピエール・ボナールが、浮世絵版画に代表される日本文化から学び取った寓話性や象徴性に共通するものがある。

「かれは長年イタリアで制作する画家であり、現代のヨーロッパ美術によって主導されてきたもろもろの探求について長い間深く考え続け、自覚的で批評的な選択として、いくつかの特殊な構成の方式をそこから採用してきたのであるが、同時に、かれの民族文化的な起源そのもの、いうなればまさにかれの生物心理学的リズムの中に存在理由を見出す固有の象徴の認識の内部で、自分のそのような熟慮を溶解させることを知っていたのである」と。

つまり、高橋は、浮世絵版画の作家たちが、愛と生を一致させて考えていたように、彼の芸術において、エロスを通じて生命の観念を表現しようとしたのである。

 「愛と生との一致に集約されるイメージを構成する暗示的な造形表現においてのみならす、古い思考法や、技術的な操作における古い時代の細心さなどにも認められる他の象徴的な意味を提出する方法を、いかにして見出したかを理解するためにもまた、この継続性を念頭におく必要があるのである」と。

高橋は、寓意的で暗示的、確然とした幾何学的な構成があるというのである。

 

喜多川歌麿との比較


 例えば、《無邪気な誘惑》(1979-80年)(図)を見てみたい。


高橋秀《無邪気な誘惑》1979-80年

高橋は薄いピンクの背景に、左右の辺から大きな白い海坊主の頭のようなフォルムが突き出し、中心線で接触する構成にしている。それぞれの頭のようなフォルムの中央には、赤い優美な線が走るシンプルな構造になっている。作品内容は、そのタイトルとは直接的に結びつくものではないが、何らかの寓意的なものを求めてしまう。しかもここに日本的なフォルムが影響を与えていると読み取ることはできるのである。


喜多川歌麿《婦人相学十躰 浮気相》1792-93年,《婦人相学品 ポペンを吹く娘》1792-93年

比較のため、喜多川歌麿の《婦人相学十躰 浮気相》(1792-93年)(図)と《婦女人相十品 ポペンを吹く娘》(1792-93年)(図)を見てみたい。

これらは歌麿の美人大首絵の揃物で、ひとつは風呂上りの女性が手を拭きながら振り返る姿を、もうひとつはガラス製の玩具を、頬を膨らませながら吹く女性の姿を表している。

これらを向かい合せにした構図で並べてみると、高橋の作品との共通したものが見えてくるであろう。まずは曲線の優美な使い方である。歌麿は、顔の表情や輪郭、肩のラインから指の複雑な動きまで曲線だけで、女性らしい柔らかさや色香を表現する。

高橋も、シンプルに見えるが、複雑な曲線を使い、女性の太ももからふくらはぎにかけてのラインを表現する。そして、ほのかな色彩の組み合わせ方である。歌麿の肌の色は、地の髪の色を利用し、着物の柄や色も強く主張するほどでない。高橋も、白とピンクを基調として柔らかな肌合いを見せる。ここには、フォンタナやカステッラーニの表現にはない日本的な女性美が表われている。現代的な空間性の追求のはてに行き着いたのが日本的な優美さや色香であったのは不思議な巡り合わせであった。

 参考文献:谷藤史彦『祭りばやしのなかで -評伝 高橋秀』水声社

#高橋秀 #イタリア #喜多川歌麿 #フォンタナ

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