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エロスの画家・高橋秀の物語(15)【アートのさんぽ】#36

映画「エーゲ海に捧ぐ」の美術監督になる

 
高橋秀が、1960年代初頭に知り合った版画家に池田満寿夫(1934-1997)がいる。
池田満寿夫は、1955年にグループ「実在者」に参加し、翌1956年からデモクラート美術家協会の会員となり、瑛九のアドバイスのもとに色彩銅版画を始めた。1957年の第1回東京国際版画ビエンナーレに入選し、1960年の第2回東京国際版画ビエンナーレで文部大臣賞を受賞して耽美的なエロティシズムの銅版画家として一躍注目されるようなる。1962年の第3回東京国際版画ビエンナーレで東京都美術館賞、1964年の第4回東京国際版画ビエンナーレで国立近代美術館賞を受賞して、国内外で広く認められるようになる。1965年にはニューヨーク近代美術館で日本人として初の個展を開催、1966年の第33回ヴェネツィア・ビエンナーレ展版画部門に出品し、国際大賞を受賞するなど、デ・クーニングのように抽象表現主義風のエロティックな人物像で高い評価を得た。翌1967年には第17回芸術選奨文部大臣賞を受賞し、制作の場もヨーロッパ各地やニューヨークなどに移し、精力的に制作をつづける中で、文学にもその才能を発揮させる。それが、1977年1月号に発表した初めての小説「エーゲ海に捧ぐ」で、しかも同年に第77回芥川賞を受賞した。この小説の掲載された雑誌『文芸春秋』は、100万部以上売れるなど社会現象といえるほどに騒がれた。

池田満寿夫『エーゲ海に捧ぐ』

そんな時、「エーゲ海に捧ぐ」を映画化したいと考えるプロデューサーが現れた。
それが、ドキュメンタリー映画「東京オリンピック」にも関わったローマ在住の映画製作プロデューサー、熊田朝男であった。日本からローマに帰国する機内でたまたま『文芸春秋』を読み、いたく気に入り、その映画製作に意欲を燃やしたという。
熊田は、さっそく友人の高橋のもとを訪ね、旧知の池田を説得してくれと依頼してきた。高橋は、さっそくニューヨークに在住していた池田に連絡して、会って話をしたい旨を伝えると、池田がすぐにローマに来ることになった。高橋は、無事に熊田と池田の間を取り持ったのである。
ところがその席で、両者から一緒に映画製作に関わるように懇願され、美術監督なる役に据えられてしまったのである。
ところが、美術監督という仕事は高橋が当初思っていた以上に幅広いくハードな仕事であった。
 

撮影の開始とその後の評判


 このようにして1978年に映画「エーゲ海に捧ぐ」の撮影が始まることになった。

映画「エーゲ海に捧ぐ」チラシ

脚本は、池田満寿夫が、自らの小説『エーゲ海に捧ぐ』と『テーブルの下の婚礼』を下敷きとしながら、主人公を日本人からギリシャ人に変更し、舞台をサンフランシスコからローマに変え、青春の果てしない欲望と野心、愛を描くというものに書き直したのであった。
製作は、当然ながら熊田朝男が指揮し、撮影がマリオ・ヴルピアーニとマウリツィオ・マッギ、音楽が『ニュー・シネマ・パラダイス』で知られるエンニオ・モリコーネ、編集がマリオ・モッラとなるなか、美術が高橋秀の担当となった。俳優は、クラウディオ・アリオッティが主人公となり、他にイロナ・スターラ(後に有名となるチッチョリーナ)、サンドラ・ドブリ、オルガ・カルラトス、ステファニア・カッシーニ、マリア・ダレッサンドロなどが出演した。
 高橋の最初の仕事は、池田の通訳兼美術監督として、俳優のオーディションに立会った。
その後、衣装の決定から、ロケハンやセットの設営、大道具、小道具など映画製作の全般に関わった。さらに『芸術新潮』からの依頼もあり、映画のスティール写真も手がけることになり、スタジオや屋外での映画撮影現場でセットの決定とともにシャッターを切る毎日が半年間続いた。

高橋秀『エーゲ海に捧ぐ 写真集』芳賀書店、1979年

映画は、翌1979年に公開されて評判となり、興業的にも成功し、高橋の写真集『エーゲ海に捧ぐ』も芳賀書店から出版された。高橋にとっては、それまで知らなかった映画製作の世界に立ち入り、より広い社会と芸術との関係を体験することになったのである。
 
 
参考文献:谷藤史彦『祭りばやしのなかで -評伝 高橋秀』水声社

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