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【アートのさんぽ】#02 金子國義

金子國義の少女アリスが生まれるまで

 
金子國義は自らの美意識を貫いた画家ということで熱狂的なファンが多いが、世界の美術思潮とは離れたところで活躍していたこともあり美術界の評価が定まらない時期が続いていた。ところが近年、その独自の芸術性ゆえに有元利夫のような存在として再評価の機運が高まりつつある。
 親友で人形作家の四谷シモンは金子を一種の天才だと言ってはばからない。下瀬美術館における「四谷シモンと金子國義」展初日(2023年10月1日)に開催された四谷シモン特別ギャラリートークの折、四谷は金子についてのエピソードを大いに語っていた。(https://simose-museum.jp/news/post-368/)
 とくに強調したのは金子の偏執的なほどの色彩感覚についてである。2つ色彩の組み合わせで、調和する色彩というのは画家であれば誰しも考えるし、好きな色彩の組み合わせというものを持っているだろう。ところが金子は合わない色彩の組み合わせを探していたというのだ。
 ある時、机の上で1本の色鉛筆を手に持ち、他の色鉛筆をころころと転がしていたので、四谷が理由を聞いたところ、「この色と合わない色を探しているの」と言ったという。四谷が驚いたのは、合わない色同士を選ぶという行為であった。そこに尋常ならざる色彩感覚を見たという。そんな金子の美意識の原点を探ってみたい。


唐十郎との出合い

 金子國義には画家になるとも考えずに過ごしていた若い時期がある。日本大学芸術学部のデザイン学科に進学するも没頭できずにいて、歌舞伎の舞台美術家長坂元弘に師事し、舞台美術家を目指していた。金子は若い舞踏家や脚本家、舞台美術家らとともに「二十日会」というグループを作り、その公演オスカー・ワイルド作 「わがままな巨人」の舞台美術を担当したこともあった。そんな活動の成果として、1960年の春陽展の舞台美術部門(この年でこの部門は廃止)に出品し、入選するなど舞台美術のデザインに面白さを感じていた。
 趣味の広い金子はその一方で新宿のジャズ喫茶に通いながら出会った仲間たちと遊び回っていた。そこにはコシノジュンコや川井昭一、白石かずこ、四谷シモンといった錚々たるメンバーが集まっていた。同時に詩人の高橋睦郎とも知り合っている。高橋は、演劇つながりということで、1966年に唐十郎を紹介している。
 その頃、唐は俳優・劇作家でアングラ劇団「状況劇場」を主宰していて、芝居「ジョン・シルバー」を上演しようとしていた。唐は、高橋から踊り好きだと聞いて出演を依頼したのは自然の流れだったのだろう。その後「ジョン・シルバー 愛の乞食篇」と「あれからのジョン・シルバー」では、舞台美術とともにポスターデザインも依頼している。当時、唐は状況劇場の芝居ポスターのデザインを横尾忠則や宇野亜紀良にも依頼している。さらに、金子に女形としての「ジョン・シルバー」への出演も依頼したのである。その後、金子は「ジョン・シルバー 新宿恋しや夜鳴篇」の芝居にも出演している。


澁澤龍彦との出会いと最初の個展


 もうひとつの重要な出来事として、フランス文学者の澁澤龍彦との出会いがある。金子は、1964年に麹町のアパートから四谷左門町のアパートに引越しをした。どういうわけか部屋の先住者がカンヴァスを残していたのを見つけ、それに刺激を受けて部屋を飾るために油絵を描き始める。絵を部屋いっぱいに飾るとともに、高橋睦郎にも預けていた。
 人生何があるかわからないとはこのことで、たまたま高橋の家に遊びに来た友人の澁澤龍彦の目にとまったのである。その流れで作者である金子を紹介しようということになり、高橋が澁澤夫妻を金子のアパートに連れて行くことになった。その時、澁澤は玄関を入るなり部屋中にかけてあった金子の絵に惹きつけられ、ずっと佇むことになる。その上で「プリミティブだ。いや、バルチュスだ」と叫んだというのだ。
 感激した澁澤はその後、金子に大きな絵画を注文するとともに、その当時、澁澤が翻訳し出版しようとしていた『オー嬢の物語』の挿絵も依頼をしたという。さらに、個展開催するべきだと促し、銀座の青木画廊も紹介したのであった。
 金子はついに1967年、青木画廊での第1回個展「花咲く乙女たち」開催する。この時、澁澤は展覧会案内状のためにオマージュ(紹介文)を寄稿している。
 「花咲く乙女たち」と題されたオマージュの中で、「金子國義氏が眺めているのは、遠い記憶のなかにじっと静止したまま浮かんでいる、幼年時代の失われた王国である」と金子のイメージの源泉を特定する。その絵画には「正面に視線を固定させたまま、生への期待と怖れから、身体を固く硬ばらせている少年と少女」が描かれて、それは「ふしぎなシンメトリックな風景のなかで、つねに子宮を夢みているナルシシストの、近親相姦的共生の最も素朴なイメージである」(以上、澁澤龍彦「金子國義個展案内状」、所収:『金子國義アリスの画廊』美術出版社)と説明した。
 金子の絵画は、同時代の概念的で難解な表現とは違って、具象的なモチーフを明快でストレートなタッチで描いたためか、広く受け入れられた。青い空に白い校舎、こんもりした森に広い運動場、それらを背景に佇む少女。少女は白いワンピースやかわいいスカートとブラウスを着て、どんぐり目を見開いてまっすぐ前を向き、こちらを見詰める。そんな作品が並んでいたがほとんどの作品が売れ、朝日新聞にも展評が掲載され一夜にして有名になることとなる。以後、瀧口修造も東野芳明も論評を書くほどになる。

ミラノでの個展

 当時、青木画廊にはさまざま美術関係者が出入りしていた。その中に、ミラノのナヴィーリオ画廊とヴェネツィアのカヴァリーノ画廊を率いていた画廊主のレナート・カルダッツォがいた。その当時、所属画家ジュゼッペ・カポグロッシの個展を東京画廊で開催していたので何度か来日していたようだ。
 カヴァリーノ画廊は1942年に、ナヴィーリオ画廊は1946年にレナートの兄カルロ・カルダッツォによってはじめられたもので、1963年に兄が亡くなり、レナートが引き継いでいた。
 カヴァリーノ画廊においては、ジャコモ・バッラ、ウンベルト・ボッチョーニなど未来派の画家、カルロ・カッラ、デ・キリコなど形而上絵画の画家たちの展覧会を開催していた。ナヴィーリオ画廊は、1950年代の美術運動に大きな影響力をもつようになっていた。ジュゼッペ・カポグロッシの展覧会の他、ルチオ・フォンタナの1949年の個展「ブラック・ライトのなかの空間環境」は美術史にその名を残す展覧会であった。この画廊の契約作家にはカポグロッシやフォンタナらとともに豊福知徳や阿部展也といったイタリア在住の日本人作家もいた。
 そのイタリア屈指の画廊が金子に興味を持ち、ミラノでの個展を提案してきたのだ。これは金子にとっても大きなチャンスであった。金子は1971年の個展開催に向けて多くの作品制作の準備をするのである。
 このナヴィーリオ画廊の展覧会パンフレットの表紙に使われたのが《姉妹》という作品であった。青い空と赤いカーテンを背景に下半身を露わにした女性二人がソファ座り、どんぐりのような目で前を見据える。赤と白のストライプの長靴下が絵にリズム感を与えている。全体に静かであるが、落ち着きのない感じがする。その原因を考えると、空の青とカーテンの赤の対比と、姉妹の肌の色が調和をしてないからだとわかる。これが四谷の言っていた合わない色同士の組合せという金子独特の色彩感覚による表現であったのである。

金子國義《姉妹》1971

少女アリス

 この個展には後日談がある。ミラノへ出品した作品のほとんどが売れたというのである。画家カポグロッシやオリベッティ社のアートディレクター、ジョルジォ・ソアヴィなどのコレクションとなったという。
オリベッティ社といえばアートやデザインに敏感な会社で、キネティック・アートのスポンサーになったり、タイプライターのデザイナーとして建築家エットーレ・ソットサスを採用したりしている。
 当時クリスマスシーズンにイタリア全土の小学生・中学生などに絵本を贈る社会貢献もしていて、金子はソアヴィを通してルイス・キャロル作『不思議の国のアリス』の挿絵を依頼されたのである。
 これは金子にとってもターニングポイントになる出来事であった。 ソアヴィから原作に忠実な絵を求められ、これまでにない窮屈さのために苦しみを感じながらも十枚以上の鉛筆画を2年がかりで仕上げた。物語を読んでは描くことを何度も繰り返しての終着点であった。
 1974年に出版された絵本は、大きな制約があったものの印刷も造本も想像以上に美しい仕上がりとなり、金子を満足させたという。
 制約から解放された金子は制作にまい進し、1975年の個展「お遊戯」開催、『バタイユ作品集』の挿絵、1978年の25点の版画から成る版画集『アリスの夢』の出版、1979年の作品集『金子國義 アリスの画廊』の出版など次々とこなしていくことになる。そして難産の末に手に入れた少女アリスの姿は、金子國義の代名詞ともいえるモチーフに育っていくのである。
 めぐりあわせというのは面白いものである。

(参考文献)『四谷シモンと金子國義 -あどけない誘惑』下瀬美術館

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