コロナ禍の中で考えたこと─もしかしたらの視点で現実にならなかった別の今を想像すること─
最近よく考えることがある。
同じ言動でも、実際に現実となった今の状況次第で、その言動に対する周りの評価が変わること。
そんなの当たり前すぎることなのかもしれないけれど。
年が明けてから、新型コロナウイルスの感染拡大が凄まじい。
年末に忘年会をしてしまった、出かけてしまった、後悔している。といったインタビューをテレビで見た。
そんな、急用ではないけれど外出した人。今の状況から、結果としてその行動は非難されている。
けれど、今もしここまで感染が拡大していなければ、今頃強く非難されることはなかったのかもしれない。ただの日常の一部で、いつも通りの出来事にすぎなかったはずだ。
先のことをよく考えずに行動したのは事実だから非難されても仕方がないと思う。それでもやはり言葉だけではどこか現実的に考えられない人もいるのかな。
例えば、これまで街角で何かの募金活動が行われていてもそれが全く目に入っていなかった人が、当事者になって募金活動に参加した時に、興味を持ってくれない人たちに対して何で?と思うことがあるかもしれない。そこで初めて気がつくのかもしれない。
そういうのと同じように、身近に感じるまでうまく想像ができない人もいるのだと思う。
そして行動した人とは反対に、周りを巻き込んで外出を自粛した人も大勢いたと思う。
例えば、決まっていた忘年会を、やっぱりやめておこうよと言った人。
その人はもしかしたら今頃感謝されているかもしれない。あの人の言うことを聞いておいて本当によかったね、なんて言われているかもしれない。
けれど、もしここまで感染が拡大していなかったら。
やっぱり普通に集まれたじゃん!もうあの人がやめておこうよとか言ったから~会いたかったのに〜
なんて文句を言われてしまっていたのかな。
「忘年会を中止しようと言い、それが良い方向に進み、良い結果になった」のならば、そうならなかった今のことは、こんなふうに「もしかしたら」とわざわざ想像しない限り、考えることはきっとない。
逆に今が「忘年会を中止しようと言い出した人がいて中止したけれど、中止しなくても世の中に大した影響はなかった。やっぱり集まれたね」となっていたら、言い出した人が感謝されている今なんて誰も想像できないだろう。
人も行動も同じなのに。
フィクションなら二股の未来を客観的に見られるけれど、現実は結果論になってしまう。
パラレルワールドのようなものが存在しない限り、実際に現実になるのは一つしかなくて、結果的に実際に起きた方が現実になってしまうけれど、こうならなかった今もあったかもしれないんだよなというのをいつも頭の片隅に置いておきたいなと思った。
こう考えていると、見えていないことが本当にたくさんあるんだろうなと思う。でも見えていないことを信じるのはとても難しくて、見えていないからといって自分で勝手に都合よく想像したものに期待を寄せるのも違う。
今回、コロナをきっかけに考えたことだったけれど、今だけではなくて世の中は常にこういうことで溢れているんだろうな。
わざとではなくて、良くしようと思ってたくさん考えて考えて考え抜いて出した結果なのに、いつもなぜかほんの少し選択を誤ってしまってうまくいかない人ってきっとたくさんいるんだろうな。
間違っていたわけじゃないよ、たまたま現実がそうなったから今回それに当てはまった人が正しくなっているだけで、皆間違っていないんだよ、と思った。もし悪く言われても、私はそれが正解になっていた世界もちゃんと想像できるよ。
もちろん全員にそんなことは言っていられない。誰がどう考えても間違っていることや、いくら考えても本当に理解できない行動をとる人や考え方の人も世の中にはたくさんいる。
それと、間違った選択をしてしまった人のことを悪く言う人を責めるつもりもない。
結局、その時の選択や状況の見極め、考え方、運、何に気がついて何に気がつかないかなどが、その人がその人である所以で、その人の責任でもあって、それがその人の人生であり個性や運命だと思うから。
常に全員がその場に対する満場一致の正解を出していたら、似たような人ばかりになってしまうだろう。
人は、その人自身によって性格や外見や考え方などが形成されるわけではなくほとんど全てが外からの影響によるものだ、というような話をたまたまここ最近続けてテレビや本で何度も目にした。だからそれもあって考えていたのだけれど。
たまたま、生まれてからこれまでの間に過ごしてきた日々、関わってきた人たち、話したこと、見たドラマや映画、読んだ本、聴いた曲、考えていたこと、そういうものの全てからこういう私として今を生きているけれど、もしかしたら今の私にはなかなか理解ができずにいるような人として生きていた可能性もあって。そうなっていたら、今こんなふうに考えている人の存在にも気がつかないのだろう。きっと今の私が気がつけていない人たちの存在もどこかにあるように。
そう思うと何だか誰のことも許せてしまうような気になってくる。
それに数えきれない程の偶然と奇跡の連続の先に、私は今の私として存在しているんだなと思ったら、自分のことも少し好きになれる気がした。
まだ起きてもいない先のことに対する「もしかしたら」は、人から行動力や可能性を奪ってしまうことも多いけれど、既に起きたことに対する「もしかしたら」の世界を考えていると、もっともっと多くの人にほんの少しずつ優しくなれる気がする。
それでもコロナが収束するまでは、起きたことに対する「もしかしたら」だけではなく、それ以上に、すぐ先の未来に対する「もしかしたら」も大切にして、よく考えて行動していきたいと思う。