【Vol.5】成田誠治郎 帝国海軍従軍記
この記事、連載は...
私の母方の祖父である故・成田誠治郎が、帝国海軍軍人として従軍していた際の記録を元に再編集したものである。なお、表現などはなるべく原文のまま表記しているが、読みやすくするため、一部を省略、追記、改変している部分があることを予め了承願いたい。
巡洋艦筑摩乗艦
○昭和14年11月10日
新兵教育が修了し、成績がよかったので当時日本最大の秘密巡洋艦筑摩の乗組になった。
なぜ秘密かというと、当時国際連合の定めにより艦船の保有を米、英、各7、日本5の比率として重巡は作られなかったので、軽巡として大砲は15cm(実は20cm)、トン数は9,800tというが、実は13,000tであった。
当時は最新鋭艦で、利根が昭和13年、筑摩が14年に竣工しているが、私は新造艦に乗ったことになる。
筑摩の坂田工作下士官
◯昭和15年2月
私が巡洋艦の筑摩に乗組中、兵科出身の岸井誠太郎から、本艦の工作科の先任下士官をしている坂田勇二郎は村上の庄内町出身と聞いた。
後日挨拶に行ったら、ちょっときつい顔をしているが、同郷人にはいたって親切で、何か困ったことがあったら何時でも来なさいと言ってくれた。
私が復員してきた20年9月頃、庄内町の家に行ったら、間もなくここで工作工具類の販売をする予定と言っていた。
その後、瀬波街道に坂田鉄工所を設立し、日本化学や中外鉱業の仕事を手広くやって、次は塩町(北線)に設備拡張をし、昭和50年頃には天神岡にまた大工場を建設した。
坂田さんが脳梗塞で倒れた後は、長男が引き継ぎ、堅実な経営をして、平成8年現在も村上では名の通った工場で、新潟方面にも販路がある。
この工場には新町の鈴木修が勤めている。
同艦の11分隊には本町2の町の中村直二がいた。
中村さんの母は仲間町の成田の妹で、妻は写真店の人であったが、東京の大空襲時に死亡され、間もなく後妻をもらったが、戦後のことは不明。
筑摩では何かと面倒を見てくれ、特に頭脳は優秀で分隊でもエキスパートの一人であった。
◯昭和15年3月25日
艦隊は沖縄の与那原沖に入った。
3月というのに猛烈に暑い。
今日は半舷上陸で三等兵の私は日帰り、二等兵以上は外泊を許された。
私は上陸して先輩の人の後について行き、砂糖工場でキビを運搬する簡易貨車に乗り那覇へ行った。
小高い丘の上にあって遠くを見ているとすぐ上空に戦斗機が2機見えた。
近くに飛行場があるらしい。
那覇駅から往復歩いたがさすがに疲れた。
又、町中へ行くと各所に休憩所があり、お茶、乾パン、モンキーバナナ、菓子等を並べて、兵隊さんどうぞと呼んでいる。
始めて沖縄を見た時は、一瞬日本とは違う感じで見えた。
まず人は顔が浅黒くずんぐり、眉毛が太く、唇が厚い。着物は野良着の様でバフバフしている。
屋根瓦はシックイで一枚一枚縁を押さえてあり、中腹には魔除けのシシが取り付けてある。
お墓は表門が広く豪華な造りのため、神様のように見えた。この地ではお墓を見てその家の生活度が分かるという。
美人は少なく色気を感じない。
田には水牛が腹を水田に入れてのんびりしている。
〇昭和15年3月27日
南方方面作戦中、第二艦隊は中支の厦門湾に停泊した時、午後5時頃、突然大型客船が利根、筑摩の間を割り込んで向かって来た。
私が当直が終わって一息入れに上甲板にいた時のことである。
大型船が殿に近づいて来たその時、見張員が大声で「武器覆掛け急げ」と艦内を廻って来た。その大型客船には乗客が沢山居りカメラ撮影している。
7~80m位にもなっているので、はっきりとその状景を見た。正にスパイに特ダネを提供したことになる。
後の祭りとはこの事だ。大砲の砲口、測距儀等の覆いは間に合わなかった。
厦門では上陸はなく、連日の猛訓練で疲れた体を休めたいのであるが、上級兵は上陸できない悔しさを下級兵に当たり散らしていじめる。
よく言われる文句は、
・上級兵(特に下士官)の配食が悪い
・インカン服(作業服)の洗濯が悪い
・何事をやるにも気合が入っていない
・ボヤーっとしている
等と言われるが、そういうお前も同じではないか、いい加減にしろと言いたい。