【Vol.12】成田誠治郎 帝国海軍従軍記
この記事、連載は...
私の母方の祖父である故・成田誠治郎が、帝国海軍軍人として従軍していた際の記録を元に再編集したものである。
なお、表現などはなるべく原文のまま表記しているが、読みやすくするため、一部を省略、追記、改変している部分があることを予め了承願いたい。
ミッドウェー大海戦
○昭和17年6月5日
朝礼時に上官より敵前上陸には変更はないと言われたが、正午近くになると船団の列が少し乱れ、進行方向が昨日とは違っているようだ。
昼食後になったら怪情報が次々と聞こえてくる。
船団の東方洋上では日本の大海戦が始まったらしい。
我が船団は一時退避する…。
ブラジル丸は速度を速め船足の遅い船をどんどん追い越していく。船団の隊形はバラバラになっている。
速いものが勝ちと、石炭船は漆黒の煙を吐いて全速で内地の方向に進んでいる。
その脇を我がブラジル丸は、恐らく全速28ノットの速度で、ミッドウェーとは反対方向へ走っている。
進行方向を見ると前方には一隻だけ少し煙を出して進んでいる。
夜になったら味方の艦隊は大損害があったようだということを知る。
重巡三隈と最上とが衝突して三隈が沈没したのを始め、次の情報では世界に誇る空母4隻が沈められ、戦艦榛名も撃破され、海軍機は300機も未帰還、将兵5,000人も戦死したという。
また、戦技最高の戦斗機のパイロットを500人も失ったのはいたましい限りである。
キスカにおける体験記
〇昭和17年6月28日
私は軍用船になった大阪高船のアルゼンチナ丸に乗り、横須賀軍港を後にした。
2日目になって我が部隊はキスカ島へ行くと聞かされた。
キスカは既に我が軍が占領しており第二陣である。
キスカの近くになってもそれほど寒くはない。後日聞いたところによると、この島は暖流の関係で四国の平均気温と同じとのこと。しかしそんな甘いものではないことをやがて知ることとなった。
上陸してみると、砂地が多く山もあるが樹木は一本もなく、いたるところツンドラ地帯であった。
私らの仕事は特潜基地の建設であり、海軍設営隊の隊員も200人位いた。
当初は皆天幕生活で連日建設機材の陸揚げ、正に人海戦術で時には半袖シャツで作業したが、さすがに7月というのに夜は寒い。
ある日、作業中に設営隊の中に偶然にも村上出身の川上平作(安良町)に出会い、懐かしさでいっぱいであった。
〇昭和17年7月
キスカでは特潜格納庫、兵舎の設置、防空壕掘り等、急速に建設が進む。
キスカで父の霊魂を見る
◯昭和17年12月14日
19:30頃、父の霊魂を見た。
1ヶ月後に池田平蔵名で死亡通知封書届く。
隊長交代用意
◯昭和18年2月15日
イ169潜、イ171潜が甲標的(特殊潜航艇のこと)各一隻ずつ搭載してキスカに入潜。
国弘信治中尉と直島少尉が着任、乙坂隊長と交代したが人員はそのまま。
キスカ島の海軍部隊編成及び配置
〇昭和18年3月
51警備隊 司令官 秋山大佐、副長 向井少佐(本部)
12cm高角砲 4門 松ヶ崎
7cm 野戦砲 4門 松ヶ崎
15cm 平射砲 4門 松ヶ崎
8cm 高角砲 4門 南高地
通信隊 大浜(本部)
設営隊 小浜(潜基)
特務隊 小浜(潜基)
甲標的隊
28号 17-6 17年12月の荒天時沈没
29号 18-3 格納庫
31号 浮標撃留
32号 格納庫
33号 浮標撃留
34号 格納庫