オッペンハイマー 感想

難解、というか考察されたがってる映画?初見の感想を書くことにどれほどの意味があるんだろうと思いつつメモがてら。

自分にとってノーランはスペクタクルなハードSFの作家の側面で好きだった節があり、今回の伝記映画が楽しめるのか観るまで心配していたが、割と序盤で杞憂だと確信できた。それは主に映像表現と音楽によって。映画としての骨格が強すぎて逆に俳優が付加価値を与えるのが難しそう。良し悪しは別としてそこがデューンと一番違うところかも。

ノーランには物理学に対するオブセッションを見出すね。前世紀を若者として過ごした世代特有の。ファインマン物理学を全巻揃えて大切に保管してそう。インターステラーの作家でもあるわけで。ところで今作にファインマンが出てるのは観た後に知った。思えばことあるごとに太鼓叩いてた。

一応物質科学をやってる身からして新鮮だったのは、理論家が究極的に合目的的なプロジェクトのディレクターをやっていること。ニュアンスしか覚えてないけど、マンハッタン計画の佳境で「お前はとっくのとうに学者じゃないだろ」と言われるシーンはかなり印象深い。軍部からのコンスタントな圧力と組織のマネジメントに難儀しながら実務を求められる立場だが、これは彼が苦手とした実験、つまり想定外の外的な現実に次々と直面する営みと根っこは同じでは?このちぐはぐさと、それを覆い隠すエゴが後の結果を招いた、というのがとりあえずの見方。ここにこの映画のディレクターという立場を重ねてノーランの自己言及?と読むこともできるはずだが、そこから何が出てくるのかまだよくわからない。

出てくるキャラで注目したのはケビン・コスナー演じるニールス・ボーア。以前シアタートラムで『コペンハーゲン』という舞台を観たのを思い出した。ボーア、その妻、ハイゼンベルクの3人芝居。この映画がオッペンハイマーとハイゼンベルクの邂逅およびボーアを慕うオッペンハイマーを描いてるのに対して、『コペンハーゲン』はボーアとハイゼンベルクの対話を描いていて、原爆開発の文脈を共有しながら相補的な対になっている。ちょうどボーアが映画内で再登場するまでの間が舞台になっているので、時間軸も入れ子構造。元々の戯曲も英国を中心に相当有名らしいしノーランは絶対意識してると思う。知らんけど。ボーアの視点でアメリカとドイツのオッペンハイマーとハイゼンベルクという2人の後進が、どんな風に見えていたんだろう、という点が想像力を掻き立てる。あくまで自分が原爆開発に身を投じることはない、という線引きもあり終始かっこいい先人として描かれていた。

今作もノーランにとって時間の建築士みたいなアイデンティティはやっぱり大事なんだなと思わせる語り方だったが、これまで時間軸の階層性とか逆走とか輪廻とか大胆な設定を用意してきたのに対して、今回のテーマは比較的シンプルな、時間差だったと思う。科学倫理もリスクマネジメントも何もかもまったく未熟な状態で未曾有の規模の兵器開発に突っ走ったことの綻びがこの映画のテーマであり、その報いは時間差でやってくる。原爆がTNT何キロトンの威力か、が当時のロス・アラモスの最大の関心事だった。でも犠牲者の相当数は放射線の被曝によって原爆投下から時間がたってから命を落とした。かつての愛人の自死、6年前から追いかけてくるストロース、光より遅れてくる音、時間差に関連するモチーフは思ったより点在している。それらをふまえて最後のアインシュタインとの対話を振り返りたい。