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【ココロの旅#71】"巡る"-素的視点から

 こんにちは、ここ数日の寒さは暦通りとはいえ、まさに厳寒!
皆さんもどうぞご自愛ください。 

前回「ぐるぐる・循環」について書いていたのですが、このテーマをちょとだけ発展させてみたいと思います。

~「行為」は巡る巡る、ぐるぐると~

●自他の行為にあるものは

私個人の経験ですが、バスや地下鉄で、赤ちゃんのいる親子のベビーカーを支え持つという行為をした時、その親御さんから(必要以上に!)感謝されることが、本当にずっと不思議でした。
「いや、そんな。私はただお持ちしただけなんですが...」という気持ち。

で、ある時、自身が大量の荷物を抱えてバスに乗り込もうとした時、あまりの荷物の重さに(若いくせに!)よろけたんですね。そうしたら、後ろの方がさっと支えてくれた。その時、やっぱりあの親御さんのように、咄嗟に次々と、異常なほど(!)感謝を表したい気持ちと言葉がついて出たんですよね。
「うぁ、す、すみません。あ、ありがとうございます!おかげで助かりました。いやぁ、私って、なんか情けないです…ご迷惑かけちゃって...」という、なぜか申し訳ない気持ちまで発生するという。
(日本人は感謝を伝えるのに謝罪の言葉を使いがちですが、長年の慣習か、その方が"より"丁寧且つ感謝の意味合い強いとされるからなのでしょうかねぇ...)

無論、あの親御さんのお気持ちを正確に量ることは不可能なのですが、私が手助けされた時に抱いたもの「ストレートに受け取れない気持ち」のようなものが、少しは入っていたかもしれないとすると...

はて、はて、一体何なんでしょうか?

●素的視点から

この「受け取れない気持ち」、私の周囲の「ホンモノの善き人」からも度々聞いたことがありますし、世間でも多くの人が抱えがちのもののようです。

けれど、「素」で見ると、ベビーカーを持ったり、他者の背中に手を添えて支えるという行為は、つまるところ、行為でしかないのですよね。
ある行為を一つ一つ、まるで取説の箇条書きのように書き起こすことを想像すると分かりやすいと思いますが(笑)。
そこに、真善美やらその逆(!)を読みとる(感じる)かは、もう、各々の観念でしかなく、その人のアタマの中(場合によってはココロの中も)にしかないもの(だから理解されにくい"芸術家"が多くいる)。

・・・なので、そういう「善き人」には、声高にこうお伝えしたい!

『誰かの行為はあなたに託された襷であって、
あなたの行為は誰かに託す襷でもあって、
その次に誰かに渡す襷でもあって、
この世界をぐるぐる・循環・巡る…』

それじゃ、素っ気ない?であれば、こんなのはどうでしょう?

行為⇒厚意⇒好意⇒行為⇒・・・無限ループ

何やら言葉遊びのようですが、厚意も好意も元をただせば行為でしかないと思えば、「あやつ、恩を仇で返すなど、無礼千万!」のような無駄な怒りも減るのでは…(あの頃の自分に言い聞かせている感...)

<今日の美>

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