【ココロの旅#83】"冬来たりなば..."-素的視点から
こんにちは、ここ数日の寒波は日本だけではなく、太平洋の向こうの米国でも大きな被害が出ているそうです。この度のパンデミックといい寒波といい、文字通りの地球規模…
~春遠からじ~
●その姿から見えるもの
「冬来たりなば春遠からじ」
この言葉そのものを知ったのがいつかは覚えていないのですが、オリジナルが英国の詩であることを改めて知ったのはつい最近のことです。
ある小春日和、いつものように散歩をしていて、道端に咲いているカバー写真の菜の花を見かけ思わず写真を撮ったのですが、よく見るとその足元には、盛りを終え色あせた草花がうずくまっていました。
その光景を見たときに、ふとこの言葉が浮かんだのでした。
この言葉は、私自身は、字面通り単に季節の移ろいについて述べたものだと思っていたのですが、
「この辛く厳しい試練を乗り越えたら、明るく楽しい日々が待っている」
と、人生訓のようにも用いられるそうですね。
明るい日差しの下で、その頭を持ち上げてその陽気を全身で受けるような菜の花、一方の草花は、もうその名前すら分からないのですが、その陰にそっと佇んでいる、まるで明るい光を避けるように。
冬を越えて力尽きた姿とこれから迎える春にイキイキと立つその姿
・・・まさに"If Winter comes, can Spring be far behind ?"
この時、カバー写真の菜の花と同時にこの草花も撮影しようかと思ったのですが、なぜか少しの"憐憫"を感じ、明るい黄色の花だけを収めました。
暫くその花々を見ていたのですが、徐々に、ふと抱いた"憐憫"の情に違和感を覚え始めました。
はて、はて、一体何なんでしょうか?
●素的視点から
確かに、「枯れた」草花は生命力もなく変色し、その姿かたちは美しいものではないとされる。
けれど、その草花の"生涯"を思ったとき、枯れるまで立派に生命を全うしたといえる。
しかも、自ら水や栄養を求めることもなく、空や誰かの手からそれらが差し出されるのをじっと待っている。
そして、芽を出し、茎をのばし葉を広げ蕾をつくり花を咲かせる、それも、誰の手も借りずに。
このような、ささやかだが凛然とした草花の生涯を想像すると、周囲の人々の手助けは言わずもがな、会ったこともない無数の人々のお世話になりながらも、あーだこーだぶつくさ言いながら日々右往左往している自分自身を顧みると、"憐憫"など、まあおこがましい!
全く恥ずかしい気持ちになりますねぇ(笑)。
しかも、草花は、その時々に合わせた振る舞いを文字通り“自然”と身に付けている、我々人間が「良い大人のマナー講座」とかなんとかにシャカリキになって通っているのをしり目に(しかも大抵身に付かない)。
その時期が来たら、静かに姿かたちを変え、新たに生命をはばたかせるものの陰にそっと身を横たえる、誰の手も借りずに。
「盛り」を過ぎた草花の、その姿かたちに、これまでその草花が辿ってきた季節を思い、その生涯に美しさを見るものなのかもしれませんね。
再び、翻ってこのワタクシ目、数年前までは、「我が我が!」の「我が儘人間」でしたが(恥)、色々な事象に揉まれたお陰で、このところは「我々が!」の「我々人類」へとシフトし始めているように感じています(未完了ですが)。
そんなことを感じたのも、冬から春へと変わるこの時期が、これまでの試練への感慨とそれを経て得られるであろう実りに思いを馳せる頃だからかもしれません。