学校は「いじめを無くそう」ではなく「いじめに対応しよう」を心掛けろ。
小、中、高、どこに行っても見かける言葉。
「いじめを無くそう」
ただ、その言葉を掲げることが義務であるかのように。
「いじめを無くす」とはどういう意味だろうか。
流石に根絶を指しているとは僕でも考えない。
そうなれば、かなりの心理テストをさせたり、育った環境の調査をしたり……を繰り返す必要があるかもしれない。
その後、いじめをする可能性のある者は殺処分、もしくは監禁となるだろうか。
それは現実的に考えて不可能である。
その為、この「いじめを無くす」とは、いじめが起こった後すぐ終わらせるということを指していると考える。
と言うか、そうでなければならない。
しかし、学校はそんなことをしないしするつもりもない。
もちろん例外はあるだろうが、時折り流れるいじめのニュースが事実だ。
だから僕は考える。
学校は「いじめを無くそう」ではなく「いじめに対応しよう」を掲げるべきだと。
そもそも「いじめを無くそう」という言葉は、学校や教師ではなく、生徒たちに向けて掲げられているように感じてしまう。
つまり、責任転嫁だ。
この言葉に対し、学校は傍観者であるように見える。
何度『いじめを無くすにはどうするべきか』なんていうくだらないアンケートに回答させられたことか。
僕自身もいじめを受けたことがある。
ただ、教師から実際に言われた----
「正直、子どもたちよりも自分たちの立場の方が大切だ」と。
誰も普段言葉にしないだけで、これが学校の事実だ。
大ごとにせず、内密に、軽く終わらせる。
見て見ぬふりをする。
それが、狡い大人たちによる世間体の守り方なのだろう。
その結果、命を捨てることが唯一の救いとなった者が自殺し、ニュースで見世物になる。
それでようやくいじめがあったということが知られる。
しかし、それを認めない学校も存在するだろう。
生き残った屑たちが、自分たちの都合の良いように解釈を捻じ曲げるだろう。
大人たちは保身に走り、無自覚な加害者たちは「子どもだから」と守られる。
僕はこんな狂った世界が大嫌いだ。