4.なる
わたしの、母方の曽祖母の話。
カタルーニャの小さな村で生まれ育った祖母は、若い頃から看護婦をしていた。
と、いってもその当時はまだフランコ政権下であったから、女子が勉学などもっての他、という時代で、もちろん受け入れてくれる学校なんてない。
あったとしても、谷間にあって公共交通機関などない村からでは、通えるはずもない。
そもそも当時、多くの人が、生まれた町から出ずに死んでいく時代だったのだ。
曾祖母などは、他国の名前も良く知らなかった。もちろんそれは、興味がなかったこともあるのかもしれないが。
とにかく、当然のように、無許可である。
小学校を卒業してすぐに産婆(この人も医療関係者ではなく、近所では魔女さんと呼ばれていた)に師事した。数年後に彼女が亡くなると、一応公共医として派遣されていた、内科の医師の手伝いになった。
内科の医師はいい人で、違反になると知りながら、祖母に色々と手ほどきしてくれたそうだ。
当時は、政府の援助が期待できなかった。
高齢に近い医者を送ったきり、施設もない村の、将来の医療環境を危惧したこともあるのだろう。またあるいは、医師本人の身に、何かあった時のことを想定したのかもしれない。僻地へ左遷されるような人物だ。政府に目をつけられていて、おかしくない自覚があったのだろう。
医師は処置は的確なのだが、見立ての方では少しヤブであったので、診断において祖母は多いに貢献したようだ。
後に無医村になった一時には、ひとりで手術をしたり、器材がなくて手芸用品で傷を縫い合わせたりしたこともあったらしい。
こうした曾祖母の武勇伝は、けれども本人から一切聞いたことがない。
患者が、そして周囲の人が前世代から聞きかじったのを、酒の席なんかで語ったものばかりだ。
時代が変わって名称が町になっても実情は村、相変わらず辺鄙なところだから、数十年経ってもそこで起きた事件は忘れられないのである。
人間というものは、身近なものに特に共感を覚えるものだ。
それが耳に入ったり、たまに直系のひ孫だと知ってわざわざ教えてくれたり(曾祖母が存命だった頃は、お礼を言われることも多かった。「彼女がいなかったら、患者の子孫の私は生きていなかっただろう」)、そんなふうに、わたしは曾祖母の人生を、結構よく知っているのだった。
直接知る曾祖母は、わたしが物心ついたときにはもうかなり高齢だった。
呆けてはいなかったけれど、口数は少なく、いつも大人しく座って編み物なんかをしていた。そう、目が悪くなった後も、とても手先が器用だった。
わたしの脳内には二人の曾祖母がいて、同じ顔をしていながら一人は豪快な女傑というイメージの一方、もう一人は楚々として可憐な、昔ながらのレディという感じで、並行してわずかにも交差しない。
それがわたしにとっての、彼女なのだった。
曾祖母はずっと壮健であったが、わたしの小学校最後の夏のある日、突然体調を崩し、医者が呼ばれるまでの短い間に息を引き取った。
母と祖母は大慌てで走り回っていたので、最期を看取ったのはわたしだけだった。
急に立ち上がれなくなった曾祖母はソファに横になっていて、わたしはその足元の、床に座って時々「大丈夫?」と声をかけていた。曾祖母は受け答えはしっかりしていたが、わたし達の声は小さく低く、セミにかき消されそうだった。
しばらくの沈黙の末、曾祖母が「聞いてほしいことがあるの」と言ったので、わたしは彼女の口元に耳を近づけた。
懺悔であった。
曰く、私は若い時に、大罪を犯したことがある。
貧しさに嫌気がさした私は、家を飛び出してしばらく放浪していたのだが、路銀も底をついて、路上で生活していたことがあった。
髪も売ってしまったので短く、汚れたぼろを着ていたので、傍目には男に見えたことだろう。そもそも、無宿人をじろじろと見るような輩もいない。誰とも話をしなかったこともある。
小さな盗みを繰り返し、うまく無賃乗車をして、辿り着いたのがこの村だった。
失態であったのは、ここから移動する手段がなかったことだ。
一日に一本あるかないかのバスに乗るしかない。乗車券が必要だ。けれどそのための金がない。ばれないように数か所から少しずつ盗もうにも、そもそも現金を置いている家が少ない。
ただ、生き延びるだけならば楽だった。
畑に出ている人達がいつでも休憩できるよう、軽食を出しておく家が多くて、そういうものは各自が好きにつまむものだから、多少減りが早くても、怪しまれもしなかった。寝床だって、農地の掘っ建て小屋に樵が使っていた廃屋に、選び放題だ。
同じく貧しくはあるのかもしれないが、都会の貧窮とは違って清潔であった。
古いのは仕方がないが、それを丁寧に扱っている。そして、多くが細かなことを気にしない風潮が良かった。到着してから誰にも見られないように隠れてはいたが、見かける村人はいつも穏やかであった。
そこでの日々を気に入ってはいたのだが、やはり若くて血気も盛んであったから、理由のない焦燥感に押されがちであった。
ある夜、とうとう裕福そうな家へ忍び込んだ。
そこの娘に見つかった。
その時のことは無我夢中で、あまり覚えていない。気が付くと同じ年くらいの女の子が足元に倒れていて、両の手は肘まで濡れて、ぬるぬるとしていた。
凶器となるものを持って行った覚えはないので、部屋にあったものを握っていたのだろう。多分文具だったと思うのだが、正確なこともわからない。
手のぬめりが赤いとわかったのは、家の大人が物音を聞きつけて、ドアを開いたからだった。
両親が二人、揃って室内の様子を伺っている。
事が露見したことも、家族からの報復も、恐れる気持ちさえ湧かず、ただただしでかしたことの大きさに、呆けて彼らを見つめていた。
やがて彼らは床の上の娘を運び出し、ぼろ布で汚れをふき取ると、漂白剤できれいにモップをかけて、部屋をあっという間に清めてしまった。
私は風呂に入れられ、寝間着を着せられて、先ほどの惨劇があった部屋のベッドに寝かされた。そのまま置かれた。
寝入ることなどできはしない。天井を見つめて、一晩中そこにいた。
朝になると、両親と揃って食事をとった。
父親は外へ仕事へ行き、母親は家事をするが、お前は疲れているだろうから寝ておいで、と諭されて、再び部屋に戻された。
何もないがらんとした部屋の中で、一番よく考えたのは娘の顔だ。
あの妙にふやけて白い、虚ろな表情を思い浮かべたが、やっぱりなんの感情も動かなかった。身体は重く、頭の中は曖昧で、寝たり起きたりを繰り返した。
そんな日々を数日過ごし、徐々に動けるようになる。
家の中、塀に囲まれた内庭、周りの家庭菜園というには広い敷地での農作業を手伝ううちに、ようやく名前に返事をすることを覚えた。皆が私を、知らない同じ名前で呼んだ。
私の髪が人並みに伸びると、母親が手を引いて、村まで連れ出すようになった。
挨拶する人々との世間話、用事で一人待っている時に聞こえてくる噂話によると、私は生まれつき障害があり、幼少から不安があると、癇癪を起こすことが多かったようだ。
体格が大きくなると手が付けられないので、人に危害があってはいけないからと、もう何年も家から出さず、育てられていたらしい。
それが、先に高熱を出した。生きるか死ぬかの、それがどう上手く転がったのか、性質が落ち着いて、良くなってきたように見えるので、こうしてお披露目できるようになったという。
見ず知らずの人々は、母親によかったわねえ、と口々に労いの声を掛けていた。
ああ、そうだった、と私は母親の、涙ぐむ横顔を見た。
「そうして私は、マリアルイ―サになったの」
蚊の鳴くような小さな声で呟いて、ふうっとため息をひとつ。
それが曾祖母の、最期の言葉になった。