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11. 花に代えて
嫌なことが重なった。
そのために眠れなくなり、不安になり、胃が痛くてごはんも食べられなくなった。
そうすると、動くことすら億劫になってくる。わたしは二日程学校をさぼって、家でただじっとしていた。打たれ弱いと笑われたとしても、わたしは人間不信に憑りつかれて、身動きが取れなくなっていた。
とにかくそれでも少しずつ、日常に戻ろうと努力はしている。多分こうしていれば、いつかは不信感が和らぐ日がくるのだろう、と信じて。そうでなかったら、世捨て人になって山に立てこもろうとも思いながら。
ある日とうとう食べるものがなくなって、わたしはスーパーに買い物に行った。
今まで買い物を避けていたのは、誰にも会いたくなかったからだ。だが昼間のこと、通りに知り合いの姿はない。ほっと溜息をつく。手先に感覚がなくなるくらい、手が震えて凍えてはいたが。
どうしても、ひょっとしたらあの人に会うかもしれない、この人に見つかるかもしれない、という妄想から逃げられない。
ふと、視線を感じて顔を上げる。そこには濃い紫色の大きな回収箱が置いてあり、おじいさんが同じ色のシャツを、セーターの上から着て立っていた。その前には、机と冊子が並んでいる。
回収箱はいつもそこにあったのだが、てっきりよくある不要衣類用の箱だと思っていた。古い服だの靴だのを投入すると、アフリカなどの貧しい家庭に送られる、リサイクル箱は緑色のはずだ。これは鮮やかな紫色で、服のアイコンは書かれておらず、代わりに壊れたハートマークがついている。
わたしと目が合うと、おじいさんはニコリと笑った。わたしはすぐに目を逸らす。おじいさんがどうというわけではないのだけれど、無視してやり過ごすつもりでいた。
「お嬢さん、不要な思い出はありませんか。良かったら寄付してくださいな」
わたしは不審な顔をしたと思う。
おじいさんは年齢の割に張りのある良い声で、どうぞ、と冊子を差し出した。小柄でずいぶんと日に焼けた、人懐こい笑顔だ。
「設置されて五周年なんですが、周知キャンペーン中でしてね。若い方はご存じではないのかな」
恐々手を伸ばして受け取った紙上には、『覚えていても、楽しめますか?』と大きく書かれていた。シンプルなイラスト――男性なのか女性なのかすら確かではない――の人物は、頬杖をついて辛そうに頭を抱えている。設置団体の名前は知っている、癌患者支援でも有名な所だ。
人間である限り全ての人間は、多かれ少なかれ、つらい思い出を抱えて生きているものだ。だが、不当にかけられた罵声、理不尽な扱いを受けた思い出は、人生を不必要に暗いものにしかねない。
「そういうものをね、捨ててしまいませんか、ってことですよ」
「そんな記憶を、集めてどうするんです?」
わたしはいつしか机の前に立ち、食い入るように話を聞いていた。おじいさんはそれに臆することなく、にこやかにキャンペーンの冊子を開く。絵と図がふんだんに使われた説明によれば、プロセスは結構簡単そうに見えた。
「ね、こうすると、記憶が零れ落ちるでしょ。あとは紙袋にでもなんでも入れてもらって、回収箱に捨ててもらえばおしまいです。集まった思い出は、お供えにするんですわ」
昔は若くして死んだ者に、同じく死んだ異性を添わせるなどして、それを慰める風習が各地にあったのだそうだ。時代と共に習慣は廃れていき、今ではせめて、経験できなかった思い出を、供える程度になっているという。
「でも、誰かのいらない記憶なんですよね?」
「そうですよ、失恋が多いかな。でも、死者ですからね。生きている人間程、文句言ったりしないんですよ」
おじいさんはちょっと気の利いた冗談を言ったみたいに、自分で軽く笑う。わたしはうまく笑うことができなかった。それに構うことなく、おじいさんはかごに入っていた飴を一つ二つつまみ上げて、わたしの掌に載せる。
「まあ、気楽にどうぞ」
わたしは頷き、冊子に目を落としたまま踵を返して家に帰ろうとして、そういえば買い物に来たことを思い出す。顔を向けると、おじいさんはにこやかにこちらを見ていた。
「あなたも何か捨てたことがあるんですか?」
わたしはつい、そう尋ねた。直後に失礼な質問だった、と気が付いて後悔したけれど、おじいさんは気を害した様子もなく、ありますよ、と軽い調子で返事をする。
「先週、妻を亡くしましてね、それこそ後を追うことしか考えられませんでしたよ」
何てことなく放たれた言葉が殴りつけてきて、わたしは衝撃に後ずさる。
レンガ敷きの歩道がぐにゃぐにゃと蠢き、そこに老人が穏やかに立っている。そのあまりにも乱れのない笑顔が、わたしにはとても、現実のものとは思えなかった。
そして老人が、言葉を続ける。
「悲しむ気持ちを捨てました。今はちゃんと、妻との思い出を振り返ることができます」
良かったと思いますよ。
紫色のシャツを着た老人は目を細め、小さく首を傾げた。
伴侶を失ったばかりにしてはあまりにも自然なその仕草に、背筋が凍るような気がした。不気味とある種の感動と、例えようのない感情が背中を押すので、わたしは黙って会釈をし、振り返らずにその場を逃げ出す。
スーパーでクルミ入りのヨーグルトを買って帰った。
別の出入り口を使ったので、帰りは箱の前を通らなかった。
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