ねこじゃの書斎
妻の実家にいる猫が、猫又だったのだ。
娘が学校で開かれた、外来幻想動物のセミナーに行って、それがわかった。得体のしれない生き物が身近にいたことは、僕には結構な衝撃だったのだが、妻は薄々気が付いていたらしく、驚きもしなかった。
八百屋さんの裏に空き地があるでしょ、とケーキをテーブルに並べながら、妻は言う。
「あそこに先月ドラゴンが出たの。それで、やけどした子がいたんだけど、あ、それは大したことなかったらしいんだけどね。でもその子、それが外来動物って知らなかったんですって」
そこでPTAの提案により、全校生徒に危険動物のレクチャーが行われたらしい。夏休み前のこと、不用意に幻想動物なんかを採集してケガでもしたら困る、と苦情がきたのだそうだ。最近の婦人会(それとも子どもの方だろうか)は行動力があるな、と僕はちょっと感心した。
彼女の祖父母であるところの、僕の義父母が持ってきたケーキを、矯めつ眇めつしていた娘は、やっとイチゴのショートケーキを選び取ると、チラリと足元の毛皮の塊を見た。
「それでね、偉い先生がきて、いろいろ見せてくれたの。ジンメンソウって、コケみたいやつなんだけど、ほんとは草じゃないやつとか」
娘はハーピーだのゴブリンだの、習ってきたばかりの幻想動物の名前をすらすら挙げたが、僕はその姿形さえ、正確に思い描くことはできなかった。
「それでね、面白かったからね、お話会が終わった後にね、みんなと質問しに行ったの。そしたら、外国から来た不思議な動物だけじゃなくて、日本にも元々いるやつもいるんだよーって教えてくれてね」
要するに、親切な学者先生は子どもたちの質問攻めにあい、情報を拾い集めた娘は、そこから身近に幻想動物がいることに気が付いたらしい。妻の実家で30年以上暮らす、しっぽが二つある生き物。
「ねこって、そんなに長生きじゃないんだって」
当の在来幻想動物である「たま」は、部屋の隅で箱座りになり、こちらの様子を伺っている。義父母が旅行の間、我が家で預かることになり、タイムリーにもお土産のケーキ付きでやってきたところだった。妻とはもちろん気心のしれた間柄だが、僕と娘とはあまり交流したことがない。
たまは三毛のメスで、どこからどう見ても「たま」としか呼びようのない見た目をしている。小ぶりで、ちょっとだけ太っている。おっとりのんびりしているところは、さすがに妻の「姉」といったところだが、孤独を愛するネコらしく、すり寄ってきたりはしない。
「慣れないところで緊張しているみたい」
妻はオレンジとラムのティラミスを取り分けると、皿に入れてたまに差し出した。ついでに頭を撫でてやると、たまは安心したのか、ケーキを舐め始める。ダークフォレストケーキをつついていた僕は、それを見てちょっと心配になった。
「アルコールの入ったものなんかあげちゃ、だめじゃない?」
だいじょうぶ、と答えたのは、しかし妻ではなかった。イチゴを皿に残したまま、二つ目のケーキをとろうとしている娘が、得意そうに首を振る。
「猫又はネコじゃないの。ネギとかお酒とかチョコとか、食べていいんだって」
詳しいね、と褒めると、リンゴのパイの上でイチゴをぐちゃぐちゃにつぶしながら、娘は重々しく頷いた。
「調べたの。わたしね、夏休みの自由研究、たまの観察日記にするから」
1.猫又はネコではない。
しばらくすると、たまは我が家に馴染み、娘は観察という名の監視に飽きて、ぼつぼつ外に遊びに出るようになった。
天敵がプールに出かけてしまうと、たまはやれやれ、といった感じでカーテンの裏から顔を出す。そして僕が席を立った隙に座椅子を占領し、そこでうとうと居眠りを始める。そうなると場所をずらして仕事を続けるしかなく、やがて僕の方が、初めからフローリングに座るようになってしまった。
僕はネコと生活したことがないのでよく知らないが、どんな動物も余りかまい過ぎてはいけないと聞いたことがある。それが事実ならば、娘は完全に接触の仕方を間違っていた。どこにいるのか、何を食べたのか、トイレの回数とその「お作法」まで詳しく調べられて、さすが猫又も辟易しているように見えた。
実際、たまは娘の目をすり抜けては、何度も僕の書斎に逃げ込んできた。しかしそれはたぶん、僕に助けを求めたというより、和室がここしかなかったからだ。それに本棚に死角が多いので、隠れる場所にも困らない。
近ごろ親子の会話が減ってきたことにそこはかとない危惧を感じていた僕は、娘との会話の足しにするため、少しだけ猫又について調べた。すると、人に化けたり、食い殺したりする民話がネット検索にひっかかる。どうやら猫又は人を害する生き物であるらしい。僕は少し不安になった。
傍らで眠っているたまを起こさないよう、そっと部屋を出て、台所へ向かう。枝豆をゆでていた妻にそれとなく聞いてみると、妻は菜箸を掴んだまま、声を挙げて笑った。いわく、実在の猫又は、怪談に出てくる化け猫とは全く違うのよ。
「猫又って、簡単に言うと頭のいい長生きなネコなの。しっぽ、触ってみなかった? 柔らかかったでしょ。あれは実は軟骨で、栄養を蓄えておくほど太くなるんですって。それで、免疫力がすごく高いの。だから長生きできて、人間の言葉とか、だんだん理解できるようになるんですって」
妻はそういい、意味ありげな流し目を送る。気が付くと、たまが背後に立っていた。僕は内緒話を聞かれ、しかもそれが彼女に対する酷く歪んだ誤解であったので、恥ずかしくなって赤面した。
「たま、パパはちょっと心配になっただけなのよ。気を悪くしないで」
妻は茹で上げの枝豆をひとつふたつ剥いて塩をふり、たまに差し出した。たまは斜めに見上げて憮然としていたが、ちょっと考えるふりをし、狼狽える僕を置いて行ってしまった。とりつく暇もないとはこのことだ。
「謝りなさいね」
娘へ向けるのとまったく同じ口調で、背を向けた妻が僕に言う。
2.猫又は化け猫ではない。
夕方、とっておきのビールを、たまにお供えした。先程の無礼のお詫びにである。
たまは午後ずっと口を尖らせたまま、僕の本棚の一番上から、仕事する僕の背中をじっと睨んでいた。とても気まずい時間だった。それなのに、いざ振り向くと隠れてしまう。ネコに謝るきっかけをつかむのは、案外難しい。
「大変失礼しました」
たまは半眼になって僕を睨んでいた、輸入品のチェリービールに心惹かれたのか、それとも謝られて気が晴れたのか、盃に鼻を近づけた。それは僕のお気に入りの、深い土色が美しい伊部で買ったおちょこなのだが、お詫びの印に進呈しよう。酒を飲むのに、ステンレスの食器もないもんだ。
妻がシャワーを浴びている間、僕は用意された料理を皿に盛り付ける。
今日は鶏の南蛮漬け、野菜の浅漬け風サラダ、冬瓜のスープだ。小皿は僕が用意する約束になっているのだが、今日は枝豆があるので、チーズをいくつか切って並べ、プレーンオムレツを作った。
配膳係の娘は、テーブルにコップを置きに行ったまま、台所に戻ってこない。テレビアニメに捕まっているのかと思って覗くと、席から忽然とたまの姿は消え、娘はテーブルの下に潜り込んでいた。
「何か落とした?」
それにしてはずいぶん静かだな、と訝しく思っていると、娘がシリアルボールを片手に這い出してきた。ボールの中に、オリーブオイルがなみなみと注がれている。
「けんちゃんがね、猫又なら油を飲むんだって言ってたの」
けんちゃん。
ひとつ上のクラスの男の子で、サッカーがとても上手なのだそうだ。父親としていろいろ質問はあったが、全て飲み下して、ふうん、とだけ言っておいた。
風呂上りの妻にこっぴどく叱られた娘は、けんちゃんのうそつき、とぷりぷり怒っていた(後で調べてみたところ、江戸時代には魚油を使っていたので、本当に舐めることもあったらしい。だが、それを教えても上がるのは自分の株じゃなさそうなので、僕は黙っていた)。
たまは断り切れず、一口二口オイルを舐めさせられたらしい。うんざりした顔でイスの上に戻ってきたので、労いを込めてビールを継ぎ足してやる。たまはそれを舐め、ため息を一つついたあと、ちらりと南蛮漬けに目を向けた。
3.猫又は油を舐めない(揚げ物は食べる)。
「あのね、猫又っていっても、動物なの。お話に出てくるおばけじゃないのよ」
「じゃあ踊るのもしないのお?」
妻の忍耐強い説明が続く。思い描いた晴れやかな自由研究にならなさそうなのを悟って、娘は不服そうだ。二人とも、カレーを食べるスプーンが止まっている。僕とたまはとっくに食べ終わってしまっていた。
話は長引きそうなので、晩酌に切り替えるべく、僕は皿を下げにシンクへ向かう。開いていた窓から空を仰ぐと、まん丸の月が、汗で濡れたように光って見えた。
しばらくして、猫又は油を舐めない、人と相撲をとらない、踊りも踊らない。じゃあただのよっぱらいネコじゃん! と娘は叫び、それを聞いたたまが申し訳なさそうに首を縮めた。
僕は慰めるつもりで、残っていたシードルをおちょこに注いでやる。しゅわしゅわと泡が細かく立ち、そのうちのいくつかが磁器の表面に引っかかって残った。
僕とたまは、すっかり飲み仲間になっていた。
あまり酒に強くない僕は、本当に舐める程度しか嗜まない。たまはもっといける口のようだが、缶の半分、それ以上催促することはしなかった。ならばせめて、と僕は、たまの好きそうなつまみを優先的に選ぶようになる。それにたまが喜べば、僕も気分よく呑めるのだ。そんな僕らの様子を見て、妬けちゃうわね、と妻は苦笑した。
もちろん、たまは話し相手にはならない。
個体によっては、猫又もしゃべることがあるらしいが、口内の構造上、流暢な発声はできないようだ。たまは無口な性質でもあり、首を振って意思表示とすることが多い。強い不愉快の表明である「いにゃ」以外、「しび」くらいしか僕は聞いたことがなかった。
しびとは鮪のことで、たまの好物だが、他の物にもそう鳴く。食卓のカマンベールを前足で指し、今もたまは「しび」と催促した。僕は白カビの部分を丁寧に取り除き、中の柔らかいところだけをたまの皿に置く。
たまは嬉しそうに、座っていたひざの上から、僕のあごに頭を擦り付けた。確かにこれはかわいい。普段も晩酌の相手であり、旅行中なのにたまが心配でこっそり電話をかけてくる義父の、心中を大いに理解できる。
「そうだ。たまのすごい特技、あるじゃない」
妻がそれを思い出したのは、食事が済んで皿を洗っていた時のことだった。
娘はソファでテレビを見始めたところで、ちょっと面倒くさい顔をした。しかし妻は構わず、まだ呑んでいたたまを抱き上げ、テレビを消し、ついでにリビングの電気も消してしまう。外の明かりが部屋に射し込み、影が長く伸びて揺らめいた。
「これね、科学的にはどうしてこうなるのか、まだよくわかってないんだって」
たまは酔っ払いのいい気分が中断され、むしろきょとんとしていたが、妻に何か耳打ちされると、名誉挽回とばかりに背筋を伸ばして床へと飛び降りた。
たまは娘の側までいくと、「にゃん」と凛々しく鳴いた。
そしておもむろにとびかかると、月光に晒された娘の影を、その鋭い爪で切り裂いて、ぺろっと一飲みに飲み込んでしまったのだ。フローリングの上の影は消え失せて、後にはふんぞりかえって前足を舐める、たまだけが残った。
娘は呆然と目を見開いて、ただ立ち尽くしている。
僕もどうしていいのかわからない。妻とたまだけが自慢げに、「どうです」と賞賛の言葉を待っている。
4.猫又は影を食べる。
その後は単純な話である。
ややあって娘は、声も枯れんばかりに泣き始めた。余りに激しく叫んだので、えづいたはずみに盛大に吐き戻してしまう。その時になってようやく、足元にいたたまが、驚いて飛び退いた。
僕は恐怖だか感動だか、混乱の渦中にいたのだが、何の心の整理もつかないまま、とりあえず床の掃除をする羽目になった。
妻に抱きついて泣き止まない娘のため、コンビニまで好物のアイスを買いに走り、なぜかわからないがけんちゃんに電話し(明日のプールにはボールを持ってきてね、と約束して)、やっと落ち着いて寝かしつけた時には、もう日付が変わっていた。
全てが非現実的で、なんだか明け方の夢でも見ているような気分だ。吐瀉物のにおいだけが、うっすらと部屋の中に滞い残っている。
片付けを済ませてそっと寝室を覗くと、小さなランプをつけっぱなしにして、娘と妻が眠っているのが見えた。娘の寝顔に、やはり影は落ちていない。しかし特別変わった様子はなく、その穏やかな寝息に、僕はほっと胸を撫でおろした。妻がいう通りなら、影は明日の朝には元に戻っているはずだ。
妻は文句なしに有罪ではあるものの、その後の気落ちした様子を見てしまうと、強く咎めることはできなかった。自分は慣れていたので、それが他人にはどれだけ恐ろしい現象に見えるか、わからなかったらしい。面白いかと思ったのに、としょんぼり項垂れつ姿は哀れでさえあった。
僕は父親として恐怖のどん底に叩き落された娘を慰め、夫として意気消沈する妻を激励し、なんだか少し疲れてしまった。が、まだ仕事は残っている。
アイスを片手に家の中を探して回ったが、たまの姿は見当たらなかった。散々たる状況を前に、おろおろするしかないたまの姿が視界の隅で確認出来てはいたのだが、それに構ってやる余裕が、今までなかったのだ。その後たまは、いつの間にかリビングから姿を消してしまっていた。まさか家出するほどとも思えないから、僕の書斎にでもいるのだろう。
日々追いかけまわされても、たまは一度も娘に「いにゃ!」と鳴いたことはない。おっとりしているように見えて、あれで結構気を使う方なのだ。放っておいては、可哀そうではないか。
書斎のドアは閉まっていた。
僕は取っ手に手をかけたが、ふとノックするべきか迷った。僕と顔を合わせるのは気まずいかもしれないから、声だけかけて、アイスは置いて行った方がいいかもしれない。それともビールの方がいいだろうか?
僕はたまのプライドを尊重すべく、色々と思案してみたが、最後にはバカバカしくなって自分のことを笑ってしまった。たかがネコに、ここまで気を遣う必要があるのだろうか。
ドアの向こう、暗闇の中で小さな生き物が動き回る気配がする。
その時、僕の脳裏に浮かんだのは、先程娘に飛びかかった、あのたまの姿だった。
多少及び腰になった僕はそっと隙間を作り、中の様子を伺う。書斎の中は暗く、蠢く影が半分開いたカーテンの前を通り過ぎた。
たまは洗濯物から拾ってきたのか、娘のタオルハンカチを頭にかぶり、二本足で立ってゆらゆらと揺れていた。
いや、たぶん本人は踊っているつもりなのだろう。いつもはぼんやりとした目元をきりりと釣り上げ、真剣な顔で手足を動かしている。しかしいかんせん、ネコは二本足歩行には向いていないようだった。背筋を伸ばそうとした横からふらふらと、たまは自分の体重に翻弄されている。
それはあまりに必死で、いじらしく、それ故滑稽にしか見えない光景だった。
はた、と振り向いた猫又と目が合う。暗闇で黄色に光る瞳に見つめられて、僕は恐怖を感じるべきだったのかもしれない。たまは舌をしまい忘れ、両手を高く上げたまま硬直している。
指に垂れた水滴に、気が付いて片手を持ち上げる。娘と妻に買ってきたものと同じ、小ぶりながらちょっとお高いアイスクリーム。反射的にそれに目を向けたたまは、我に返って一言二言、何か呟こうとしたようだったが、その言葉は僕の耳には届かなかった。瞳孔を開かせたまま、たまは小さく、
「しび……」
と鳴いた。
その時、僕はどんな顔をしていたか。
読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。