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紙鳥

 近頃めっきり足腰が弱くなった祖母に代わり、紙鳥を取りに行った。
 地下鉄で最終まで行き、谷町というところで降りる。8駅出ただけでこうも違うのか、と少し驚いた。駅前はそれほどでもなかったが、商店街を抜けたところからは、道路は舗装もされていない。一昨日の雨で未だにぬかるむ道を、20分ほど歩いた。

「申し訳ございません、遠いところをわざわざ」
 紙鳥屋の店主はとても感じの良い人だった。四十を少し超えたくらいだろうか。ずいぶん痩せているが不健康な様子はなく、動物を相手にしているというのに、ぱりっとしたシャツを清潔に着こなしている。言葉に違和感を覚えるところもあったが、来客も少ないはずだし、これは仕方がないことに思えた。
 若者は滅多に訪れないので口に合うかどうか、と言いながら、冷たい抹茶とぼうろを出してくれた。残暑の厳しい日の午後、湿度の高い道をだらだらと歩いてきた後のことで、遠慮なくグラスに口を付ける。抹茶には砂糖と氷が入っていて、とても飲みやすかった。
 店は想像していたものとは違い、白いコンクリート壁の北欧的なデザインだった。それが田んぼと雑木林が続く道に、突然ぽつりと現れる。窓などに使われている炭のように黒い木材と、入り口の藍染めの暖簾が、ステレオタイプに現代的な、伝統工芸取扱店である演出を一手に引き受けている。
 それにしても、内装も素っ気なさすぎる程で、白い壁はほとんど全て本棚として埋まっており、商品は一切並んでいない。店らしい部分といえば、奥に続く手前、僕達が今座っている、小上がりだけなのだ。鳥のにおいはおろか、音もしないのが不思議だった。
 店主は僕の息が落ち着く頃合いをみて、開いた帳簿に素早く目を走らせた。
「おじい様から連絡は頂いております。まずは一羽ということで、ご注文を承りました。仕上がっておりますのは『荒地』のみでございますが、よろしゅうございますか」
 そう言って店主は注文票を丁寧に並べて見せてくれたが、その時になって初めて、祖父から何も説明を聞いていないことに気が付いた。正直に告白すると、店主はうつむいてかすかに笑った。僕は恥ずかしかったが、それは嫌な笑いではなく、むしろ場を和やかにした。
「すみません、手持ちで払えるといいんですが……」
 できるだけ口を大きく開けてはっきりと言う。店主はそれを、軽く手を上げて制した。
「いえ、お代は頂いておりますのでご心配には及びません。念のためご確認いただきとうございましたが、エリオットを注文なさるお客様もなかなかいらっしゃいませんので、間違いはないかと存じます」
 時に、どの紙鳥をまず受け取るかにこだわる客もいるらしいが、順番については問題ないと請け負った。
 祖父は読書が好きだ。
 それこそ片時も本を離さないので、祖母などは本を肴に晩酌をすると揶揄するほどだった。その祖父が二か月前に交通事故に遭い、視力と利き手に障害が残るであろうと診断されたとき、彼にとって最大の問題が、本が読めなくなったことだった。祖母は音読が得意ではない。
 紙鳥がいれば祖父は本を諦めなくて済むわけだから、孫よりも可愛がるはずだ。実際、電話で祖父が念を押したのは、紙鳥が可哀そうだからバイクで迎えにはいくな、という点だけだった。
 それを聞くと、店主は少しだけうれしそうに微笑んだ。

 たぶん、僕を含めた多くの若い世代――ひょっとしたら親世代でも、紙鳥をよく知る者は少ないのではないだろうか。
 紙鳥は人工的に交配して作られた生き物で、平安貴族が歌を覚えさせ、どれほど美しい声で詠むかを競ったのが始まりとされている。全盛期でも限られた地位の者しか手に入れられなかったといい、和歌文化が廃れた現在、実際に見ることさえ稀になった。下手をすれば、日本文化を専攻する留学生の方が詳しかったりする。
 滅多にない機会なので見学させてほしいと頼んでみたところ、店主は快く奥に通してくれた。ただし、数ある部屋のほとんどは本を保管するのに使われているので、実際に使用しているのは作業場と、飼育室くらいなのだそうだ。
 薄暗い廊下から、墨のにおいが漂う。覗き込んだ部屋の土場には紙をすくための植物の繊維が束になって積んであり、作業台には紙が大量においてあったが、むしろ整然とした印象を受けた。
 紙鳥に与える本は、多くがここで写本されるのだそうだ。紙も墨も品質にこだわり、化学薬品を一切使わない材料を、時に手作りするというから、紙鳥が高価なのも頷ける(後に知ったことだが、紙鳥は高額なので現金で取引することさえ少ないらしい。まして、大学生が気軽に立て替えられるような値段でもなく、僕は先程の店主との会話を思い出すと、顔から火が出そうになる)。
 使い込まれた紙漉きの道具や、吊られた美しい筆の数々を眺めると、理由のわからないため息が出た。
「市販の本は与えられないんですか」
 そんなことはありませんよ、と店主は手を振った。初版本を与えるよう指示する客もいるのだそうで、毒物となるインクが使われたりしていない限り、注文にはできるだけ応じるのだそうだ。
「ですが、紙鳥は消耗品でございます。それでもできるだけ長く生かせるため、店にいる間は素材にこだわって与えております。まずは一冊覚えさせるまでが手間でございますから」
 廊下の先はほとんど漆黒の闇だった。やはり墨と和紙の独特のにおいが強くするが、それに混じって動物の湿った息の気配もする。店主は部屋の電気をつける前、口を開けて、耳を塞がないようにと忠告した。そうしないと、鼓膜を痛めてしまうのだそうだ。
「多少煩そうございますから」
 電球が付いた途端、爆発のような音に、僕は思わず目をつぶって仰け反った。多少、どころではない。個々の音はむしろ穏やかですらあるというのに、それが重なるとこんな音になるとは驚きだ。それぞれの紙鳥が何を読んでいるのかはおろか、単語さえ聞き取れない。
 紙鳥たちは粛々と、本を読んでいる。
 乱れない抑揚、上がらない音声、全てが一定でありながら、しかし無機質には響かない。むしろその音のひとつひとつが、生々しく耳に入ってくるのだ。鳥たちの絞り出す歌声は断末魔の叫びのように、必死の訴えを伝えんとしているようでもある。
 僕はなにかしら、ぞっとする思いに身をすくませた。
 店主はさすがに慣れたもので、てきぱきと電球を切り替えると、小さな豆電球のオレンジの明かりが、部屋の中を薄く照らした。すると紙鳥たちはぴたりと音読を止めてしまい、後には何羽かの、訥々とした声が上がるだけとなった。
「文字が読めない程度、というと漠然としているかもしれませんが、このくらいの明かりでは紙鳥は本を読まなくなります。一時的に黙らせる場合はしおりを噛ませますが、そうでない場合は籠を暗くしてやるとよろしいようです」
 店主は穏やかに言いながら、祖父の紙鳥を探し始めた。僕は呆然として、返事をすることができなかった。
 棚に並べられた小さな竹の籠の中には、小さな鳥が一羽ずつ入っている。それは文鳥にそっくりの姿形をしており、皆赤くて太いくちばしを持っている。体色は白いもの、白黒ぶちのもの、真っ黒なものと様々だ。
 店主は二十八番と書かれた札の、小ぶりな灰色ぶちの紙鳥の籠を手にすると、僕の方を振り返った。もう少し見学がしたいか聞くつもりだったのだろうが、先程の爆音に心が委縮してしまったのが顔を見てわかったらしく、苦笑すると視線だけで店の方へと誘導した。

 店内に戻ってくると、店主は何も言わず、新しいお茶を出してくれた。用意があるから、とまた奥に戻ってしまう。紙鳥の竹籠は絹の鮮やかな深緑の布で覆って行ったので、僕は落ち着いて、しばらくそれを眺めながら、温かなお茶を啜った。番茶は香ばしく、肩の力を抜いてくれる。
 店主は水差しや冊子を手に戻ってくると、それを紙の袋にいれ、籠の覆いをめくって見せてくれた。
I shall not want Pipit in Heaven:
Madame Blavatsky will instruct me
 一羽だけに耳を傾ければ、なるほど紙鳥は素晴らしい声で鳴く。
灰色と思ったものは青黒い色をしていて、これは与えられた本のインクの色なのだと教わった。最初の本を覚えるまで、同じ本を与え続けるので、その色に染まってしまうのだそうだ。
「こちらは本の追加を覚えた個体ですので、その場合は本だけを与えるのが無難でございます」
 他の食べ物の味を知ってしまうと、紙鳥は本を読もうとしなくなる。しかしもちろん、本を与えただけでは栄養にならない。故に、紙鳥は長く生きられず、消耗品と呼ばれ、動物保護の観点からは批判されることもある。
「酷と思われるかもしれませんが、紙鳥はこのために作られた生き物でございますから。紙鳥として全うさせてやるためにも、また覚えた文学へ敬意を表するためにも、ご理解頂けますと幸いです」
 はい、と僕は頷いた。この愛らしい生き物に対していろいろ思うことはあるが、その言葉は正しいと思った。
「失礼ですが、お客様は文学部でいらっしゃいますか」
 一貫して無駄に口を開かず、しかし丁寧な執事のような店主が、唐突にそう尋ねたので、僕は少し驚いた。しかしそれを見せては無礼な気がして、僕は努めてなんでもないことのように、自分は文学には関係のない学問を学んでいる、と告げた。
 実際、僕は文学からは遠い生活をしている。高校まではあの祖父の孫だから、時間が許す限り読書をし、背伸びして文芸作品もそこそこ読んでみたけれど、いつからか本から遠のいてしまった。
「恥ずかしい話ですが、あまり読まないんです。読書は疲れるもので」
 それこそ山のような蔵書に囲まれて生活している人を前に、不勉強をさらすのは恥ずかしかったが、店主はなぜか納得した様子で、さようでございますか、と深く頷いただけだった。
「あの、店主さんはたくさんお読みになるんでしょう。どれが好きですか」
 それは意趣返しというつもりは全くなく、単純に思いついた質問だった。紙鳥屋だから、ひょっとするとあの祖父よりも読書量は多いのかもしれない。蔵書だって、店内に見えるだけで、驚異的な量なのだ。そんな読書家の贔屓の作家とは、どんな作品を書くのか、単純に興味があった。
 店主はそうですね、と静かに首を傾げたが、ややあって、いえ、と目を伏せた。
「……わたくしも本は苦手なのでございます」
 実を申しますと、紙鳥屋にはそういう者が向いていると言われております。
 ふと漏れた真相に、僕は意外なような、逆にそうでもないような、気持ちの整理が一瞬では付かず、言葉に詰まってただじっと、店主の目を見つめた。店主は少しの悲壮と、多少の清々しさを湛えた瞳を、ただただ畳に落としている。
「紙鳥屋には、読ませて半という言葉がございまして、あまり情緒的に読み過ぎる鳥はかえっていけないとされています。本は作家の魂ですし、読み手にも受け取り方というものもございますから」
 こんな話がございます。
 昔、ある貧しい紙鳥屋の男が、女から一羽の鳥を贈られたそうです。鳥は歌を詠むのですが、これは女が手づから墨で書き落した、男への恋歌でございました。しかし、男は女に愛情を持っているわけではなかった。鳥はそんなことはお構いなしに、朝から晩まで素晴らしく心を込めて歌を詠むのです。貧しくて他に店に出せる紙鳥がいないので、男は鳥の声を止めさせるわけにいきません。それが美しければ美しいだけ、男は女の想いの深さに心を打たれ、しかしそれに応えられない自分を嘆き、とうとう自分で耳をつぶしてしまった。
「それからというもの、男の家の者は耳が聞こえなくなってしまったが、彼の育てる紙鳥は穏やかに本を読むようになり、家は栄えた、という……まあ昔話でございます」
 なぜ店主が、そんな話を僕にしたのかはわからない。単なる気まぐれであったのかもしれない。僕はどう感想を言えばよかったのか、わからなくてごにょごにょと口元を動かしたけれど、なんの音も出ては来なかった。だから、店主がその唇から、どんな言葉を読んだのかはわからない。
 紙鳥に視線を落とす。小さな声で鳴き続けていた鳥は見つめられて、そのつぶらな瞳を動かした。
 店主は静かに、鳥籠に覆いをかける。

読んでくださってありがとうございました。少しでも楽しんで頂けたらうれしいです。