「じゃあな、凌太」と彼は言った。
※劇場版「おっさんずラブ 〜 LOVE or DEAD〜」のネタバレが含まれます。
※個人の感想・解釈です。
劇場版が公開されて半年。
Blu-ray・DVDの発売まで残り3日。
いつものようにホームに滑り込んできた電車に乗り、会社の最寄りで降り立つ。コンビニでカフェラテを買い、カップを片手に信号待ちの横断歩道で空を見上げると、晴れやかな顔をした青空と、ビル群を照らすまぶしい朝日がさんさんと降ってくる。
肌寒い空気の中にもあたたかさの気配があって、ああ春だな、とぼんやりと思った。
毎年訪れる、代わり映えのない、新しい春。
新鮮味のない通勤路を歩きながら、突然、春田創一と牧凌太、そして天空不動産のみんなにはもう会えないのだなという実感が湧いた。
生活のなかに「おっさんずラブ」がない春が来た。
はじめて劇場版を観たあの日から、牧凌太という人物に言えずにいるたったひとことも、結局言えないまま半年が経った。
劇場版が公開されて半年が経ち、円盤が発売間近になっても、やっぱり、春田創一と牧凌太、それから作品を彩る登場人物たちに、もっと恋をしていたかったなと思う。
ふたりの恋に、まだまだ恋をしていたかった。
応援せずにはいられない他の登場人物たちのそれぞれの恋にも、ひいては「おっさんずラブ」という作品自体にも、もっともっと恋をしていたかった。
大切な人のために身を引くだとか、我慢をするだとか、いわゆる愛と呼ばれるものではなく、自分勝手な、焦がれるような恋を画面の前で見ていたかった。
連続ドラマ版で描かれた以上に、「愛」がフォーカスされた劇場版。
前記事でも似たようなことを書いたかもしれないけれど、劇場版の春田創一は連続ドラマ版で慣れ親しんだ春田創一とはまた違い、(未熟さは拭えないながらも)相手の立場に立とうとしてみたり、恋をした相手──牧凌太──とどう向き合うのが正解なのか考えたり、価値観や考えの相違に苦しんだり、悩んだり。
そうして手探りに成長していきながら、最後には春田創一にとっての「愛」を、ひとりの人間として牧凌太に示したり、街や自分の仕事に対して抱いたりする。
そんな春田創一をスクリーン越しに見ながら、行かないでほしいと願った。
その恋を、まだ愛にしないでほしい。
わたしはまだふたりの恋に恋をしていたいし、牧凌太には正直シンガポールに行ってほしくない。駄々をこねたい。聞き分けのよい大人になれそうもない。そこに牧凌太の夢があるとしても、そこに春田創一が見つけた愛があるとしても、置いていかないでほしい。
頭では理解しているけれど、まだ終わらせないでほしい。
ずっと未来を見据えている牧凌太には、きっとシンガポールに行かないという選択肢はない。であればその代わりに、春田創一なら行かないでくれと言ってくれるんじゃないかと、あの瞬間、心のどこかで願ってしまった。
言ってくれるわけがないのに。
だって春田創一が牧凌太に抱いているのは、愛になってしまった恋なのだ。春田創一はもう、わたしと同じ立ち位置には居ない。愛するとはどういうことか、なんとなくでも自分なりに理解して、牧凌太の行く末を見送る(そして自分も一歩踏み出せる)ことができる人になってしまった。
牧凌太も、春田創一も、みんなも、それぞれが前を向いて、自分の人生も相手の人生もどちらも愛しながら進んでいく。そのまぶしい背中を、ず〜〜っと後ろの方に突っ立って進めないまま、眺め続けて半年が経った。
ラストシーンの展望デッキ。
ここでふたりは別れるのだな、とスクリーンの前で予感した。連続ドラマ版が「ただいま」「おかえり」で締められていたから、もしかすると「いってきます」「いってらっしゃい」で締められるのかもしれないな、とも思った。あるいは「またな」とか。
実際には、「いってきます」と言ったのは牧凌太だけで、春田創一は「じゃあな、凌太」と口にしただけだった。さらに後の最後の台詞も「じゃあな」だった。
旅立つ恋人に向けて言う台詞としては「いってらっしゃい」が一番きれいな筈なのに、春田創一はそれを言わなかった。
春田創一がなぜ「じゃあな」と言ったのかはわからない。脚本の思惑があるのかもしれないし、続編にバトンを渡すためのものだったのかもしれない、春田創一なりの決心や思いがあったのかもしれない、わからないけれど、自分なりの愛を知って遠くへ行ってしまったと思った春田創一という人物は、この時だけはまだわたしと同じところに居るのかもしれないと思った。
だって、「いってらっしゃい」なんて、言えない。
応援すべきことなのはわかるし、牧凌太というひとりの人間の人生なのだから、追える夢は追うに越したことがない。恋人ならその背中を晴れやかに押してあげるべきなのだとも思う。それが物語のセオリーだ。だけど、いってらっしゃいという短いひとことだけが言えない。
どこにもいってほしくはない。
いってきますと言われても、「いってらっしゃい」のただひとことを返せない。スクリーンの前に座っていただけのわたしでさえ。
牧凌太にも、春田創一にも、天空不動産のみんなにも、おっさんずラブという作品にも、いってらっしゃいのひとことが言えなかったわたしには、展望デッキでの春田創一がひときわ「等身大の春田創一」に見えた。
成長はしたけれど、成長しきれてはいない、じゅうぶん大人だけれど、愛も知ったけれど、でも、綺麗にセオリー通りに見送ってはやれない、それでも、それでも前に進むことだけは心に決めた人間くささが、春田創一だなと思う。彼には、「じゃあな」が精一杯なのかもしれなかった。
少なくともその時のわたしには、「じゃあね」が精一杯だった。いってらっしゃいが言えない。だけどこれが天空不動産との別れなのはわかっていた。だからまたねとも言えない。半年前のあの日、去っていくふたりをじゃあ、と見送るので精一杯だった。
あれから半年が経った。
牧凌太に、春田創一に、天空不動産のみんなに、そして「おっさんずラブ」という作品に、出会えてほんとうに良かったなと今でも日々思う。
大人になってあんなにも夢中に見た作品はほかにないし、登場人物ひとりひとりの気持ちをなぞったり、展開に一喜一憂したり、元気を貰ったり、文字の通りわたしの生きる活力そのものだった。見る前よりもずいぶん、人のことを好きになった。「おっさんずラブ」以降、熱を上げられる作品にはまだ出会えていない。
新しい春が来た。
田中圭さんが演じる春田創一にも、林遣都さんが演じる牧凌太にも、もう会えないのだな、と今朝ようやく実感した。
やっと「もうみんなと会えない」ことへの実感が湧いて、それと同時に言えずにいたたったひとことをこのまま言わずにいたら、もう二度と言えなくなるのかもしれないなとも思った。
春田創一が言えなかった(かもしれない)ひとことを、半年前のわたしがスクリーンの前でとてもではないけれど言えなかったひとことを、言うタイミングがあるとすれば今なんだと思う。
半年が経って、わたしの中に残っているおっさんずラブという作品へのあたたかい気持ちや、登場人物たちへの感謝は、きっと愛と呼べるものだ。
春田創一にかなり遅れをとりつつも、わたしの恋も半分くらいは愛になれた気がする。
春田さんも牧くんも、黒澤部長も武川主任も、マロくんに蝶子さん、ちずちゃん、鉄平さん、舞香さん、宮島さん、狸穴さんもジャスも、そして「おっさんずラブ」というかけがえのない作品も、いってらっしゃい。
どうか笑って、末長く、お元気で。