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「メンテナンス嫌い」な私がいつか床磨きマスターになるかもしれない話──リジェネの魔法に憧れつつ、手間ひまかける暮らしの味わいも捨てがたい

「メンテナンスは嫌い。でもリジェネは大好き」。そんな気持ち、わかりませんか? メンテナンスって何かと面倒ですよね。たとえば部屋の掃除や、放っておくとすぐに溜まるメールの整理。これらは、いわば「マイナス」を「ゼロ」に戻すための行為で、ほっとくと汚れるし、溜まるし、散らかる一方。まるでゴールのないマラソンを延々と走り続けるような感じです。掃除しても、またすぐにホコリがやってくる。洗濯物を片づけても、翌日には新たな洗濯物が発生。カオスとの終わりなき闘い。それが「メンテナンス」という名の修行です。


一方「リジェネ」は、RPGゲームの回復魔法みたいなもの。何もしなくても、毎ターン自動的にHPが回復していくようなイメージです。労力はゼロ、なのに常に新品同様。たとえば「不労所得」なんてまさにリジェネに近い感覚かもしれません。寝ててもお金が入る。「あれ、私、何か努力したっけ?」となるほどスムーズな回復と潤いが、日常に勝手に注がれているような状態。

そう考えると、リジェネ的な発想はめっちゃ魅力的です。「努力しないで綺麗な部屋にならないかなぁ」とか「勉強しなくても知識が勝手に溜まらないかなぁ」なんて、誰しも一度は妄想したことがあるでしょう? そんな楽チン生活を夢見て、「自動化」「効率化」「ルンバにおまかせ」などの魔法を、私たちは探し求めているのかもしれません。


でも、ふと気づいたんです。「メンテナンスにはメンテナンスの良さがあるんじゃないか」ってこと。たとえば掃除をして部屋がピカピカになった瞬間の爽快感。そこには、「ああ、私ってちゃんと行動できる大人なんだな」という小さな自信が生まれるし、やるべきことを済ませた達成感がある。これはリジェネでは味わえない感覚かもしれません。なぜならリジェネは結果が「当たり前」になってしまうから。努力した分だけ部屋が綺麗になるという、メンテナンスならではの因果関係には、滋味深い味わいがあるんです。


年齢を重ねると、茄子(なす)が好きになる人が増えるといいます。子供の頃は「なんか苦手…」と思っていたけど、大人になると「え、茄子ってこんなに美味しいの?」と目覚めるあの瞬間。それと同じように、「メンテナンス」ってものの良さが、少しずつ理解できるようになっていくのかもしれません。人生経験を積むと、なぜかあの「わざわざ手をかけて整える」という行為が、心を整えるための儀式めいて見えてくる。掃除することで頭もクリアになるし、ちょっとした達成感で心もピカピカに輝くのです。そう考えると、いつか私も「えっ、メンテナンスって意外とイケてるじゃん」と思える日が来るのかもしれません。


とはいえ、まだ私の中では「リジェネ最強!」という気持ちはくすぶっています。でも、少しずつメンテナンスの良さも知り始めている。何となく、将来は朝から雑巾片手に鼻歌まじりで床を磨く、達人みたいな自分が見えてくるような気がします。今日も部屋の片隅で小さなホコリとにらめっこしながら、私は次の一手を考えています。リジェネに頼るだけじゃ、手に入らない快感がきっとある。それが成長ってやつなのかもしれませんね。

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