尹雄大著「聞くこと、話すこと」感想

先日、 卒業が掛かったフィールドワークでこんな経験をした。

このnoteを読んだ友人が、タイトルの「聞くこと、話すこと」をお勧めしてくれた。〜人が本当のことを口にするとき〜というサブタイトルからしてすでに、今私に必要な本だと感じて即読んだ。こういう本に出会ったとき、バイト終わり腹ペコの時に納豆ご飯をかき込むのと同じ快感を感じる。

ある本で「自然は雄大で美しくて、欲にまみれた人間と違って何も望まない」というような賛美を読んだ時、それは、植物の声を無視して、自分の都合のいいように「自然」を解釈しているだけなのでは?と感じていた。京都の御所とか「自然化された自然」をみて「やっぱり自然はいいな」というけれど、コンクリートの割れ目から何度も顔を出すあの雑草だって、自然なんじゃないかと。雑草なんて、生命力の塊で、「俺は生きるぜ!」というような、ど根性を感じないだろうか?そしてこの解釈もまた私の勝手な解釈なので、植物の声を無視しているのかもしれない。

そんなことは置いておいて、本の感想を忘れないように書き留めておきたい。

10代で出産した沖縄の少女たちの生い立ちや暮らしぶりを調査し、支援の方法を探る、上間陽子さんという女性の章が特に印象的だった。

上間さんによると、少女たちの語りは、時系列が滅茶苦茶になっていたり、何度も会って話すうちに相手が変わってしまったりするという。これに対して尹雄大は、慰安婦の語りを重ねてこんな風なことを書いていた

彼女の掻きくどく話に苛立った様子で彼らは言う。「証言の細部が経年に従い変わっている」「そもそも曖昧な記憶を裏付ける文書があるのか」客観的な検証に耐えうる整序された説明でなければ、信じるに足りないという考えを辛抱している。彼らはオーラル・ヒストリーなど歴史の些末な傍証に過ぎないと考えている。だから公的機関による裏付けのない、誇張の混じる恐れのある慰安婦の記憶などあてにならないというのだろう。

身に刻まれた痛みや悲しみを抑えることも晴らすこともかなわない。引き裂かれた感情を抑え、それでも正気を保たないことには生きていけない。摩滅しそうになりながら生きてきた人の言葉が、穏当に理解できるようなものになるわけがない。身が軋むような生き方を強いられてきたのであれば、ほつれた語り口で言わざるを得ない必然性がある。

例え事実と異なる証言をしていたとしても、彼女たちは嘘をついているのではない。私の質問を無視しているわけでもない。

彼女たちにとっての真実であり答えなんだという姿勢で、耳を傾け始めれば、全く違った景色が見えてくる。


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