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人生は確率の問題か?

そんなわけないか。

もう11月も終わろうとして、世の中浮かれ気分の12月へ突入。毎年思うのだが、12月のこのラスボス感は一体どこから来るんだろう。それと、どこからそんなに人が沸くのだ。今までどこに隠れていたのか。何をしてたのか。12月だけ外へ出る新しい生き方でもあるんだろうか。

私はあまり季節感のない生活をしているし、平日は毎朝同じ時間に起きて同じ時間から準備を始め、同じご飯を食べ、同じルートで通勤する。日中PCの前で仕事をして、同じ昼ご飯を食べる。就業時間がくれば着替えて同じルートでコンビニに寄って家に帰る。靴を脱ぎ、定位置にバッグを置いて、同じ手順で洗濯とお風呂とご飯の準備をする。同じ時間にそれらすべてが終わって、同じ時間からだいたい同じ時間までビール片手に本を読んだりゲームをしたりする。そしてまた明日!というかなり正確なタイムテーブルで生活している。まるでロボットのようだと書きながら思ったね。

言い訳するとこれには理由があって、昔双極性障害(躁鬱)を患った時に、あまり感情の起伏のないよう、かわったことをしないで穏やかに規則正しく生活してくれ、と医者から言われて忠実にそれを守っただけなのだ。病はもう完解しているが、この生活を乱すとやっぱり疲れ気味になるので、病はさて置いても規則正しい生活というのはいいもんだ思い、今でも規則正しく生活している。

こうやって1日単位で人生を考えた時は、思うようになっている。でも、半年、1年、10年単位で俯瞰するととんでもなく思い通りになっていなくて面白い。

10年前は躁鬱真っただ中で半分死にかけていた。絶望とは死に至る病だ!と哲学者キルケゴールは言ったけど、全くそうだと思う。

当時は10年後にこんなに穏やかな毎日を自分が送っているなんて1ナノも思わなかったし、その更に10年前の自分はまさか自分があんなたいそうな病気になるなんて1ナノも思わないくらい順風満帆に生きていた。

返せば、今未来のことを考えて気に病んだり苦しくなったり絶望していたとしても、そんな心配無用なのだ。

だって人生はそう簡単に自分の思い通りにならないから。

全てが自分の気に病んだ通り、心配した通りになっていたら私今頃この世にいない。恐らくは人生は確率の問題なのだ。このままいけば思った通り=100%になるぞ、という確率をどうやって下げていくのかを自分の経験と知識という公式で解いていく。人生をそんなような数学っぽい感じでとらえると面白いかもしれない。限りなく0に近い確率をたたき出すために考えて実践すればいいのだ。

などとぼんやり考えていたけど、近々哲学者で著述家に会う。というとんでもないバグのような出来事が私の人生で起こりそうだ。なんでも先に仕事として上梓したとある論文を読み、いたく気に入ってくれたそうで、彼が好きな哲学者がヴィトゲンシュタイン。いや、確かに私も好きだけど!哲学者と渡り合えるわけないでしょ。というわけで学生時代に学んだヴィトゲンシュタインを昨日から色々ひっぱりだして再勉強中だ。ヴィトゲンシュタインほどふり幅の広いバグが起こった人生もないだろう。哲学者に会ったら、ヴィトゲンシュタインを人生のバグと確率で話してみたいな、と思った。もうそれでいいか!


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