「水の泡」忌野清志郎の言葉。
(忌野清志郎の言葉37)
「水の泡」という曲がある。忌野清志郎率いるロックバンド・ラフィータフィーの
アルバム「夏の十字架」収録曲。歌の中に出てくる「みんな水の泡」という
フレーズは、60年代を代表するソウルシンガー、ウイルソンピケットの代表曲
「In the midnight hour」を日本語に変換したものだと思う。
歌い出しのフレーズが、主人公の悲しみの深さを伝えている。
頭の中がまっしろになって、現実(目の前の風景)を受け止められない。
そんな描写のようだ。いったい、なにがあったのだろう。
その答えは、次のフレーズで明かされる。
愛する人を失ってしまったようだ。
「愛しあったのに」ではなく「愛したのに」
と歌われているので、片思いなのかもしれない。
喪失による、つらさ、悲しさ、虚しさ、
今の心境が延々と綴られ、
みんな水の泡という言葉に落とし込まれていく。
水の泡になったものは、何か。努力や忍耐だ。
これをどう解釈するかで、曲の印象は大きく変わる。
自分を愛してもらうために、いろんなことをやって、
どんなこともがまんした。
そうとらえると、彼女は高嶺の花。あるいは自由奔放な女性。
いままでの過程がムダになったことを、嘆き悲しんでいるのだろう。
しかし、それでは、ちょっと情けない。必死でがんばったのだから、
いいじゃないか。悲しさというより、くやしさをぶつけているように
感じるし、そういう人物には、あまり感情移入できない。
ちがう解釈もできる。彼女とは実は両思いで、一つの夢を
二人でめざしてきた。それが、突然、永遠の別れがやってきた。
こうとらえると、深い悲しみと合致する。
努力とは二人の夢を実現するためのもの。忍耐も、彼女に対する
ものではなく、仕事など日常のがんばり。
彼女との別れにより、すべてのものが消えてしまったのだ。
「もう あの娘は笑わない」というフレーズも、死を連想させる。
そして、もう一つ。彼女とは、人ではなく夢の比喩だというとらえかた。
これは、夢の喪失を失恋に置き換えた歌なのだという解釈だ。
彼女は行ってしまったとは、夢をなくしてしまったの意。
夢をつかむための努力と忍耐、そのすべてが水の泡になったときの
絶望感を表現した歌なのかもしれない。
この曲も、「スローバラード」(参考)と同じだ。
言葉と音、そして声が見事にとけ合った名曲だと言いたい。