ネパールが面白い話
少し前になるが私のnoteデビューで「ネパールのおもろい話し」というのを書いた。
これはいわゆる、本当に私の悪文が投稿できるかどうか恐る恐る試してみた訳だったのだが・・・本当に投稿されていて、その証拠に数人の(間違えて読んでしまった不幸な)方からの「スキ」をもらったり、フォローを頂いてびっくりした。
なんと言うか、私にとってFacebook等に投稿するのは一様知っている人向けなのに対して、noteへの投稿は全く知らない人々への投稿となる訳で、感覚が大分違っていて戸惑ってしまったのだ。
だって、私の悪文が全く見ず知らずの人に読まれる可能性があるというのは、好きで好きでたまらない女の子に一大決心で書いたラブレターを、うっかり落としてしまい、拾った誰かに読まれてしまう・・・ついでにみんなに回し読みされる・・・みたいなもので相当に覚悟のいる事である様に私には思えたのだった。
それで、すっかり怖気付いてしまった私は数ヶ月間新しい投稿をする勇気が持てなくて・・・すっかり忘れた振りを自分の中で決め込んできた。
そんなこんなの間には、オミクロンの流行が通り過ぎて行ったり、ワクチンを含めたコロナ騒動に引き続いて起きるであろうと想像していた食糧危機や地域紛争が私の思っていたのとは少し違う形でやって来たりしていた。
この分では世界はこれからどんどん変な方向に行ってしまいかねないし、大袈裟に言えばインターネットだって何時まで使えるか分かったものではない・・・。
最近では世界中がフェイクに溢れているように見えて仕方がない。
今までは毎日のように更新していたFacebookも投稿する記事が削除され出すとなんだかフェイクbookにしか見えなくなりやる気が出ないのである。
どうせネパールなどという場所はインドとか中国といった大国が思い思いに領土を広げて行った成れの果てに「もういいか・・・」と、取り残されて出来た空白地帯の様な場所で河の中洲のような大して利用価値の無い場所なのだから・・・疫病が流行ろうが戦争になろうがインターネットが無くなろうが大した事にはならないのである。
それならネットの繋がっている今のうちにその利便性をもっと楽しんでおくのも良いかもしれないと思うようになったのもある。
そんな訳で今日は二度目の投稿をしてみる事にしたのだが、何かを強制されたり追い込まれたりするのが極端に嫌いな性格でもあり、3回目があるのかどうかは本人にもとんと分からない。
前置きが長くなったが私は現在ネパールの山奥に住んでいる。
小さな手作りのニジマスの養殖場を作って生業となし、妻と「社長」という名前の犬と「ピロ」という名前の猫と暮らしている。
数年前までは「チントゥ」という名前のフクロウも一緒に住んでいたのだが、ある日お腹の空いたピロに食べられてしまった。
それ以来うちの家族のメンバーは4人だけである。
まあ、そう聞くと大抵の人達は何とも牧歌的な平和で穏やかな童話の世界の様な風景を想像しがちであるが、今の生活を始めて以来何度も死ぬ様な目に会い、生業のニジマス養殖も最初の数年間は一匹の魚もできず、腹が減っても何も食うものがないという有様が何年も続いた。
だが、そんな状態で文無しになってしまっても何故か不思議と飢えて死ぬようなことも無く、何とかなってしまうのがネパールという所でもあるのだ。
ネパールには日本人がもうとっくに発展の代償として何処かに置いてきてしまったような、ありとあらゆる訳の分からないガラクタ様の全て(後になって薄々気が付いてくるのだが、このガラクタ様の全て・・・とは人間らしさ・・・とか人間臭さのことである。)が今でも人々の生活と心の根幹の中で確かに息づいている。
私がネパールに初めてやって来たのは日本で東北の震災が起こる1年ほど前であるから、もうかれこれ12~13年程になるだろうか?
ネパールの山の暮らしにもようやく慣れてきたある日の事、朝BBCのラジオ放送をつけたら「日本の原子力発電所が爆発しています!」と言われてびっくりしたのを覚えている。
爆発といったって実際にはピンからキリまであって、ラジオだから映像は唯一私の頭の中で繰り広げられるチェルノブイリ様の発電所の上に立ち昇る映画ターミネーターに出てくるジャッジメントデイの様なキノコ雲しか無かったので、英語の殆ど分からない私には、とうとう帰る祖国さえ無くなってしまったか・・・というくらい大袈裟なものであった。
それから更に3年後、今度はネパールで自分が震災に巻き込まれようとは思いもしなかった。
それにしてもネパールという所は実に不思議な場所である。
日本から航空機で到着した首都カトマンズの第一印象は兎に角「汚い」であったが(今は大分綺麗になりました。私が初めて訪れた頃を10とすれば今は8か9くらいです。カトマンズにはバグマティー川という結構大きな川が街の中を流れているのですが、水の色は真っ黒、まさにドブの匂いが辺りに立ち込めていて水面にはフツフツとメタンガスの泡が浮かび、ありとあらゆる不要品が漂っています。当時は河川敷にスラム街があり子供達がこのドブ川で水浴びをしているのには驚きました。だって、水から上がってくると全員頭からつま先までドブ色に染まってるんですよ。)、ほんの少し田舎に行くと、日本人のDNAをくすぐるような、なんとも言えない懐かしさが込み上げてくる様な場所でもある。
それははっきりと言葉では言い表すことは出来ないものであるのだが、例えばいくつにも重なり合って何処までも何処まで続いている山々であったり、一体どうやって作ったのだろうと思うような規模の段々畑であったり、そこいら中見渡す限りの菜の花畑であったり、そこで代々暮らしているうちに、これらの景色に同化しきってしまった人々の顔だったりする訳だが、やはり、これだと言うような特定のできるようなものでは無い。
田舎の家にしても石と泥だけで積み上げた壁に木枠の小さな窓や戸を付けて天然石の瓦やトタンで屋根を拭いた(昔はトタンではなく茅葺きだった)だけで床はそのままの赤土に所々尖った岩が突き出している。
家の主人に座れと勧められても何処に座ったら良いのか検討もつかないほど家の中には何も無いのが普通だ。
ある時など薄暗い土間にどっかりと腰を下ろしたらちょうど私の尻の穴に尖った岩が見事にジャストフィットして天井まで飛び上がるほど痛い思いをした。
大袈裟な・・・と思うかもしれないが、ネパールの田舎の泥と石の家では天井も信じられないほど低いものだ。
そんな訳だから、当然彼らには水平であるとか平らなどと言う感覚すら無いように見受けられる。(この事は養殖場を作る時にとても問題になった。飼育池を作る時に池の底部分は平でしかも一定の勾配が必要なのだが仕事を任せて目を離すと、でこぼこの池が出来上がるのだ。)
土間に腰を下ろしてしばらくすると気付くのだが、殆どの家では床が水平でも無ければ平でもない。
何も考えないであぐらをかくと後ろにひっくり返るほど傾いているのが常識なので物事をすぐに信用しないでじっくりと観察する癖が養われてとても良い・・・かもしれない。
そんなこんなの話をするとネパールの田舎の泥と石の家が酷い家に思えるかもしれないが、決してそんなことは無い。
まず第一にこの家はコストパフォーマンスが素晴らしい。
殆どの作業は家族総出でできるし、実際に金が掛かるのはトタンと釘、窓枠と扉の加工位なもので後は何も買う必要が無い。
全部拾ってきた石と水でこねた泥でできるし、2階の床や屋根部分の木材も山から切り出してきて簡単な工具で自分で加工できる。
それから、泥と石の家は夏は涼しく、冬は暖かい。
壊れてもすぐに補修できる。
例えば、この類の家の1階と2階のあいだ(1階の天井、若しくは2階の床部分)の構造は何本かの太いハリにそこら辺から切り出して来たような細い枝を渡して、その上から練った赤土を被せただけである。
当然何年も住んでいると細い枝が腐ったり虫が喰ったりして耐久性が落ちる。
そうするとどうなるかと言うと、ある日2階で目覚めた私が起き上がって床の上をごく普通に歩いただけで・・・ズボッ!! っとゆかが抜けて足が膝の辺りまで床にめり込む。
これを1階部分にいる人の視線から説明すると・・・朝起きてキッチンでお茶を沸かしていると突然・・・ズボッ!!っと言う音がして見ると天井から足が生えていてピクピクと痙攣している・・・っと言うことになる。
びっくりした私がようやく足を引き抜くと、床には大きな穴が空いていて、その穴の中がどう言う構造になっているのかと覗き込むと、その家の奥さんとかと目が合って気まずい思いをする。
せっかく泊めてもらった家で、朝起きるなり酷い破壊行為をする客にどんな待遇が待っているのだろうかとヒヤヒヤしながら急勾配のハシゴのようなよく滑る階段をそこら辺にしがみつきながら降りてゆくと・・・なんか、だぁれも気にもしていない様子。
朝食の支度が整う間に主人がそこら辺に積んであった薪で適当に穴を塞いで、赤土を水で練って10分位で元通りに直してしまう。
なるほど、これが噂に聞いたことのある「朝飯前」というやつなのだろう・・・と私はただただ感心してしまうのであった。
そんな訳だから、穴があこうが崩れようが復旧は恐ろしく早い。
実際地震の後倒壊した殆どの家は崩れた石を積み直してあっという間に再建した。
(再建が余りにも早かったのでネパール政府の地震復興事業で家屋の復旧支援の補助金の話が来る前に殆どの家が復旧してしまった。ものぐさで何時までも家を直さないでいた人にはご褒美で耐震性の鉄筋コンクリートの家がタダで建てられたのに、家が崩れた証拠を隠滅してしまった勤勉な人には何も保証がおりなかった訳だ。)
そんな訳で私もネパールの田舎に住むのなら、当然この素晴らしい工法の家に住みたいものだとずーっと考えていた。
だから養殖場を始めた当時実際に私が作ろうとした家も純ネパール式の泥と石の家であった。
パソコンで図面を引きながら色々と計算したところキッチン兼居間、寝室二つ、トイレ、五右衛門風呂、ポーチ、倉庫の規模で人夫を雇って費用は20~30万円位だ。
家を建てようと職人を探して工事を始めたのが二月頃。
家の前の切通に石垣を築いて家の壁になる部分に基礎を築き今日から壁を作るという日に地震が起こった。
確か4月位だったと思う。
最初は弱い揺れが数分続いていたが、そのうちにしゃくり上げるような大きな揺れが始まって家の前に築いたばかりの石垣がガラガラと崩れだした。
妻が泣きながら私にしがみついて来るので身動きが取れない。
作ったばかりの飼育池を見ると池に大波ができて水がドブンドブンと溢れている。
(ネパールに来る前に地震に詳しい友人が、そろそろネパールで地震が起こるかもと言っていたのを思い出し、養殖場は呆れるくらい頑丈に作っておいたので全く被害は無かった。他の養殖場の多くは池が決壊してそこら中魚だらけになっていた。
それから、興味深いことなのだが、地震の直後より川の水が濁り水量が5倍ほどに増えた。水量はその後数ヶ月でだいぶ減ったのだが、今でも以前の2~3倍が続いている。他の養殖場の中には地震後水量が減ってしまい回復しなかったところもある。)
山の方を見上げると大きな岩がゴロゴロと斜面を転がり落ちてゆくし、部落のある対岸の山では泥の家々が崩壊する土煙がモウモウと上がっているのが無数に見えた。
人夫達は「キャー」と悲鳴をあげて全員逃げて行ってしまいまい、もう二度と戻って来なかったので、結局家も建たなかった。
で、どうしたかと言うと、山に竹を切りに行ってビニールシートで回りを囲って家用に買ってあったトタンをふいて風で飛ばないように石を乗せて2年間住む羽目になった。
地震当日にその日のうちに建てたバラックで近所の一家と一緒に土の上で寝たのだが、結構冷えた。
犬の社長が夜中私の脇にピッタリとくっついてくれて暖かかったのを覚えている。
地震のあったのが4月頃で、ネパールでは4月~6月の雨季に入る前が一番暑い。
ビニールシートで覆ってトタンで蓋をしたような我が家は日が昇るとそのまんまローストチキンが焼けるように暑い!
運が悪いことに、この時期には時たまとんでもない突風が吹く。
ある日の事、夜寝ていると突然の突風が吹き、トタン屋根が波打つようにめくれ上がり一瞬そこから満月が見えたりした。
これはいけないと思い、翌日に屋根がめくれない様に大きな石を屋根に載せたのだが、かえって酷い目にあう。
確かに屋根は月が見える程めくれないで済んだのだが、石の重みで屋根が家の内部に落ち込んで妻と2人でトタン屋根と石の下敷きになってしまった。
更に雨が降り出して、この踏んだり蹴ったりの状況は収拾不能となった。
これだったらトタン屋根がめくれて月が見える方がよっぽど風流で良かった。
当然だが地震の後停電になった。
余震も結構大きいのが数週間続いていたように思う。
余震が起こると「ゴゴゴゴゴ」と地鳴りがする。
結局停電は1ヶ月程で復旧したと思うのだが、あまり覚えていない。
と言うのも、私が住んでいた村では家にある電化製品というものの99.9%は明かり用の裸電球くらいなものであったので、電気があろうが無かろうが夜少し暗いだけで生活上あまり大した差が無かった。
だから、ひと月も経つ頃には人類にとって電気の発明がそれ程重要とも思えなくなってしまったし、夜明かりがあると便利だという考えも次第に忘れ去られてしまったのだった。
そんな訳で電気が復旧した時の思い出は夜になって急に復旧した明かりがやけに眩しくて目がチカチカした事くらいだ。
地震の後、電気が復旧してしばらくすると村の商店から商品というものが消えていった。
久しぶりにむらの店に買い物に行った妻が言うには、店には汚い店主の顔と空の棚以外何も無い・・・と言う。
原因はインド国境の閉鎖だという。
詳しい事は不明だったが、その年に制定されたネパール憲法の内容がネパールに住むインド系住民に不都合であるとかで、国境が事実上閉鎖しているようで物資が入って来ないと言うのだ。
ガソリン、軽油がストップしてハイウェイから車が消えた。
時々やってくるバスは屋根の上まで乗客で溢れている。
家ではまず煮炊きをするガスが無くなり、食用油が無くなり、砂糖が無くなりビスケット、インスタントラーメン等の加工品が無くなった。
我が家では家を建てる予定で購入して置いた木材が薪(たきぎ)になった。
困難度で言うと地震の時よりもよっぽど大変であったのだが、輸送手段の無くなった農産物がそこら中に溢れていて、それを妻が毎日のようにタダで山ほど貰って来るので、我が家の栄養状態は以前よりもよっぽど良好であった。
つづく・・・かもしれない。