なんでネパールに住んでいるの?-(3)
こんにちは、ネパールの山奥でニジマスの養殖をしている村田です。
今回も引き続き何で私がネパールに住んでいるのか考えて見ました。
今回の話はフランスでの出来事がメインです。
フランス留学・・・初めての海外
前にも書いた様に私は外国なんて大嫌いだった。
海外に行きたいなどと一度も思った事も無いし、日本語以外喋りたくもない。
例え日本語であったとしても外国人と話をしたいとも思わなかった。
ただ「苦手に挑戦する」という先輩の口車に乗ってここまで来てしまっただけだ。
だが、駒ヶ根での過酷な語学訓練から早く逃れたいばかりに一日も早く任国に出発したいという気持ちになっていたのも事実である。
そして、連日のキチガイ騒ぎのような訓練ですっかり脳細胞が破壊されていた私は、火だるまになった人間が喜んで氷の海に飛び込むようにしてフランス行きの飛行機に乗ってしまっていた。
フランスはパリ ド・ゴール空港だったかな・・・に着いた時には真夜中。
人通りも殆どない。
早速他のモロッコ隊員達とルーブル美術館近くの結構高そうなホテルに向かったのだが・・・送迎のバスから降りた瞬間にフリーズしてしまった。
パリのシャンゼリゼ通りの端の方とはいえ世界でも有数の繁華街である。
真夜中だろうと何だろうと結構人が大勢歩いている。
しかも、よく見ると全員が外国人であった。
「うわ〜あぁ〜!! 全員外国人ばっかだ!」
思わず叫んでしまった私に年長の同期隊員が、すかさず鋭いツッコミを入れる。
「アホか!? ここじゃお前がその外国人なんだよ💢!!」
これは余りにショックな出来事である。
二年間発展途上国の任地で現地の人々と同じ言語を話し、同じ物を食べ、苦楽を共にしながら専門技術を生かして活動する・・・と言われて(騙されて)人格が崩壊する様な訓練にも耐えてきたのである。
いくら何でも、大嫌な外国人に自分がなってしまう・・・なんていう話は一度も聴いていなかった。
だがもう遅い、飛び降り自殺で例えるならビルの上から飛び降りてしまった後である。途中で「もう少し考えます。」っと言う訳には行かない。
諦めるしか無かった。
で、どうしたかというと・・・きっぱりと諦めて、心を入れ替えてルーブル美術館に行ってみる事にした。
フランス到着後、数日間パリに滞在して休日も挟んでいたので、兎に角あちこち歩き回ってみる事にしたのである。
つまり、敵を知らば百戦危うからず・・・である。
で、ホテルの前にでぇ〜んとルーブル美術館があったのでとりあえず行ってみた。
特に混んでいるという訳でもないが、閑散ともしていない。
まあ、今にして思えば、人は結構多いたのだろう。
何せ大きな建物で通路も天井もやたらと大きかったので、空間の広さに人が希釈されてしまっていた。
それに、皆美術品に夢中で私の存在など全く誰も目に入らないようでとても気楽である。
中に入るなり、とんでもなく大きな絵画が飾ってあり圧倒される。
どれを見ても凄い迫力で目が離せなくなる。
「順路」という表示に従って歩くのだが、いくら歩いても出口に辿り着かない。
もう足が棒になって歩けなくなる寸前にレオナルドダ・ビンチの「最後の晩餐」の前にたどり着いた。(レオナルド・ダ・ヴィンチは小学生の頃伝記を読んで結構好きだった。)
それから足を引きずるように前進を続けゴッホの「ひまわり」を見た頃にはめまいがしてきた。(ゴッホの絵は数少ない僕のお気に入りだった。)
それからはもう殆ど意識を失いかけながら、這うように進んで気が付くとNIKEの名前の由来になった「ニケ」の前でへばってしまっていた。(当時NIKEのスポーツ用品は結構センスが良かった。)
もうどうやっても歩けないし頭が一杯で何も分からない。
ルーブル美術館はその後一人で二回行ってみたが、何度行ってもエネルギーを吸い取られるように衰弱してしまい最後まで体力がもたなかった。
数日間のパリ滞在の後は語学学校のある「ビシー」という小さな街に移った。(第二次世界大戦の時さっさとナチス・ドイツに降伏してしまったビシー政権の在った街ですね。)
到着後直ぐにホームステー先の家族が迎えに来てくれた。
ボロボロのプジョーで街を案内してもらいながら家に着く。
僕がホームステーした家族は結構年配のご夫婦と、僕よりもみっつ程若い、とても活発な末っ子の娘さんの三人家族で、二人の息子は結婚してパリに住んでいるという家庭だった。
この家庭はとても雰囲気が良かった。
特に末っ子の「クレール」は当時失業中ではあったが好奇心旺盛で殆どフランス語の喋れない僕とも直ぐに意気投合してしまった。
そして、翌日からは語学学校が始まった。
僕のクラスでは生徒は十数人程で日本人が数人、あとは南アフリカとかナミビア、南米人で若い女の子ばかりだった。
先生はフランス人のちょっと小柄で年配の可愛い感じの女性。
当然クラスでは日本語一切無し。
で、僕は早速初日から落ちこぼれた。
そもそも僕は小学校の頃から学校が大嫌いで、学校では勉強をするということが理解できなかった人なのだが・・・少し冷静に考えてみれば、いきなりこんな環境に適応できる訳が無かった。
大体まず 、先生が言っていることが分からない。
全然分からない。
指名されても何をどうして良いのか分からない。
駒ヶ根の訓練所では極少人数だったし、僕の落ちこぼれクラスは日本人の先生で、授業は日本語だったから何とかしがみついて最後まで行く事ができたのだが 、ここでは100%フランス語だ。
分からないフランス語を、分からないフランス語を使って勉強するなど訳が分からなかった。
数日でやる気も失せてしまい朝は学校までの景色が素晴らしかったので散歩気分で学校までは行くのだが、授業が始まると直ぐに胃のあたりがシクシクしだす。
昼食後は教室に戻ろうと努力するのだが足が勝手に帰宅しようとするのを自分の意思で留められない。
そんなこんなで先生も僕の対応にどうしてよいやら分からなくなったのだろう。
ある日こんな事があった。
朝一番にいつもの様に学校へ行くと、先生が話しかけてきた。
「ダダシ(僕の名前)グランブルーという映画を知っている?」
「知らん!」
「そう、あなたにぴったりな、とても素敵な映画だと思うわ!機会があったら是非見て欲しいの。あなたはグランブルーの主人公にとてもよく似ているわね。人生は色んな事があって時にはどうにもならない時も在るけどそんな事気にしちゃダメ。フランス語なんか分からなくても良いの。自分らしさを失っちゃダメよ。」
「映画の事は分からないけれど先生の言っていることは良く分かったよ。僕は小さい頃から学校が苦手なんだ。でも、フランス語を諦めた訳じゃ無いんだ。要は僕のやり方じゃないとダメなんだよ。ここに居ると時間が無駄になるだけだと思うんだ。」
その日以来僕は学校に行くのを辞めた。
何処からも文句は出なかったし、何故か後で卒業証書も届けられてきた。
それにしてもこの先生、多分思わず口が滑ってしまったのだろうけれど、「フランス語なんて分からなくてよい!」だなんて、随分凄いことを言ったものである。
これじゃあ医者が「アンタの癌は治らなくても良い。せいぜい自分らしく過ごしなさい」と言っているようなものではないか?!!
で、その日からどうして過ごしていたのかと言うと、お父さんのボロボロのプジョーを免許取り立てのクレールがブレーキとクラッチを時々間違いながら運転してあちこちと遊び歩いた。
クレールは僕が学校に行かなくてもフランス語とその文化を貪欲に吸収したがっていることをちゃんと理解してくれていた。
だから分からないことがあっても絶対に諦めないで手を替え品を替え、僕が理解するまで根気よく時間制限なしで、まるで母親が子どもに教えるように接してくれた。
二人であちこちの古城を訪ね歩いた。
公園でランニングをして僕が空手を教えた。
世界最古と言われる、土器にアルファベットが刻まれた遺跡を尋ねた。
川に釣りにも行った。
山にハイキングにも行った。
彼女の就職活動にもあちこちついて行った。
ボロボロのプジョーは時々ワイパーが突然動き出して止まらなくなったり、ブレーキが効かずに前の車におかまを掘って喧嘩になったりしたが、何とか二人で切り抜けた。
そして夜は家族揃って赤の安ワインを空けながら一日の出来事を話して笑い合った。
両親が寝てしまった後も僕達はフランス語の辞書を助けに色々な事を毎日深夜まで話し合ったものだった。
そして1ヶ月がすぎた頃には私のフランス語は見違える程上達してしまったのだった。
(当時私は日本で失恋したばかりで、まだ新しい恋をする状態ではなかったのだが、もし、彼女と恋に落ちていたら別の人生が在ったのかもしれない。)
ビシー最後の朝、見送りに来てくれたクレールの家族と別れを惜しみパリに戻るバスに乗り込むと、とても悲しい気持ちになった。
この一ヶ月に起こった全ての事が一つ一つ繰り返し頭に浮かんでは消えて行く。
陽気に騒いでいる他の隊員達に泣いている所を見られないように一人窓際の席に座って外の方を向いていた。
駒ヶ根からずっと一緒に苦楽を共にしてきた同期隊員が私の隣の席にやって来た。
そして、彼はちょっとあらぬ方向に視線を向けながら、何気なしに私に話しかけてきた。
「村田、何だか久しぶりだなぁ。 学校来ないから皆んな心配していたんだぞ。で、彼女ができてフランス語ペラペラになったって本当か?!」
「まあな。でも、彼女じゃ無いんだ。」
「何だ振られちゃったのか! しょうがないな、でも心配するな。もうじきモロッコだ!」
私はあえて否定も肯定もしなかった。
窓の外を単調なフランスの田舎の風景が緩やかに通り過ぎてゆく・・・それは私の頭の中で何度も繰り返されながら浮かび上がる、このひと月の思い出のように同じ場所をぐるぐると巡っていて永遠に何処にもたどり着かないように思われた。
そして、ふと我に返ると外国が怖くて怖くて仕方が無かった私が1ヶ月のフランス生活を全うしている事に気が付いた。
しかも、もう何も怖くなかった。
結局、私が抱いていた外国人に対する嫌悪感、恐怖は現実のものではなかったのだろう。
それは単に無知という私の頭に中に巣食った黒い小さな洞の中に存在していただけだったのだ。
その洞はこの国で出会った様々な人達やクレールによって、もうどうでも良くなった子どもの頃のくだらない玩具の様に、あちこち転がされたり、いじられたりしているうちに壊れてしまい、私の知らない間に彼らによって何処かの物置に片付けられてしまったようだった。
後には、「そう言えば、どうでも良いんだけど昔家にこんな物があったね・・・。」みたいな微かな記憶だけしかもう残っていなかった。
「そうだ、もうじきモロッコだ!」
つづく。