「見えないものを見る」ということ 十文字美信氏の作品に就いて
週末の9月7日(土)、資生堂ギャラリーで開催中の展覧会
■「空想の宙(そら) 『静寂を叩く』 大乗寺十三室|十文字美信」展
https://gallery.shiseido.com/jp/exhibition/7381/
関連イベントの十文字美信氏と美術史家・写真評論家 の伊藤俊治との対談イベントに参加した。
ある意味、十文字美信という写真家の創作の原点に迫るようなとても充実した内容の対談だった。
今回の展覧会に登場する大乗寺客殿(兵庫県美方郡香住町)は別名「応挙寺」と言われるように日本画家円山応挙とその一門の障壁画が残されており、今回の対談では、応挙の「写生」が持つ意味や一門で制作するということについて、「目に見えないものを撮る」という十文字氏の考え方と実践について具体的で迫力ある言葉をいくつか聞くことができた。
今回の対談では「見えないものを見る」という十文字美信氏の創作活動の最も重要なテーマについてもかなり踏み込んだ話がされたけれど、それについて書くのはテーマが深すぎていささか僕の手に余る…
何かヒントはないかなと検索していて、先日亡くなられた松岡正剛氏が、2006年2月15日の「先夜千冊」に十文字美信氏について書かれた記事を見つけた。
松岡正剛氏は友人でもある十文字美信について例えばこんな風に語る。
「十文字美信は忘れがたいものを撮る写真家だ。むろんわれわれには誰だって忘れがたいものはある。ふつうは、それは個人的な記憶というものだ」
「しかしわれわれにはまた「未知の記憶」や「未萌の記憶」というものもあって、未だそんなことやそんなものを見たわけではないはずなのに、それが記憶にあてはまるということもある。十文字はそれを撮る」
「十文字は仕事にとことん凝る男だ。だから写真を見るだけで、どこにいったい凝ったのか、その奥行を発見するには、見るほうにもかなりの眼力が必要だ。あるいはヒントが必要だ。極端な集中力を注いでそれを写真にしているのだが、その集中は写真には直截にはあらわれていないからである。物体や光景がただ歴然として残っているだけなのだ。さまざまな準備や力みやバイアスは写真のなかにはむやみに入らないようになっている」
この記事の全文は下記URLから読むことができて、対談でも語られていた、タイとベトナムの国境付近の北部山岳地帯に定住するアカ族やヤオ族に分け入って写真を撮影したことについても触れられていてとても興味深い。
対談を聞き、この記事を読んでからまた今回の資生堂ギャラリーでの十文字美信氏の作品を見ると、今まで気づかなかったものが、それこそ「見えていなかったもの」が少し見えてくるかも知れません。
https://1000ya.isis.ne.jp/1109.html