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NO.100 島田雅彦のエッセイ『散歩哲学』について
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島田雅彦の新刊エッセイ『散歩哲学』(ハヤカワ新書)を読んだ。
軽いエッセイだけど、随所に島田雅彦らしい視点が垣間見えて楽しい。
例えば川島雄三の映画『須崎パラダイス 赤信号』について、こんな風に書く。
「『須崎パラダイス 赤信号』は埋め立て地の近くに栄えた労働者向け歓楽街入口にある小料理屋が舞台になっている。橋の下で途方に暮れていた流れ者の男女がバスに飛び乗り、そこに流れ着くところから物語が始まる。川べりの貸しボート屋を兼ねるその店にはこれから歓楽街に女を買いに行く男たちが景気づけに一杯ひっかけにやってくる。神田でラジオ店を営む落合という男もその一人だが、流れ者の女と懇意になる。男の方は女将の口利きで蕎麦屋の出前になる。全編にドブ川、雨、水たまり、酒、水道、水飲みなど水のイメージが散りばめられいて、画面からは下水や安煙草、安酒、蕎麦つゆのニオイが漂いだしてくる。この映画を何度も見返してしまうのは、この店で約70年前の酔客たちと飲んだ気になれるからである。」
そんな記述を読みながら、僕は週末友人と訪ねた北千住の大衆酒場のことを思い出す。
島田雅彦はこんな風に続ける。
「飽食とは食に飽きてしまうということで、それよりも飢餓と隣り合わせながらも、工夫を凝らし、助け合って陽気に生き延びてゆくところに人としての原点があるような気がする。」
そんな島田雅彦の視点に共感して、僕は朝から無性に『須崎パラダイス 赤信号』という映画を観たくなってきた。
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