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松岡正剛さんのために
昨日、劇場版『アナウンサーたちの戦争』を観るためTOHOシネマズ日比谷で日比谷公園の緑を眺めアイスコーヒーを飲みながら入場を待っていた時、スマホのニュースで松岡正剛さん逝去の報に接し、しばし呆然とした。
松岡正剛という名前は学生時代に雑誌『遊』の編集長として耳にしていた。
また、松岡正剛さんは昨年亡くなられた元資生堂名誉会長福原義春氏が社員を対象とした塾にも度々講師として招かれ講演もされていたからその名前は親しいものだったけれど、その著作を入手し耽読したのは1995年に刊行された『フラジャイル』(筑摩書房)という本が最初だ。
「フラジャイル=弱さ」の持つ意味や価値を、文学•芸術•科学…など様々なジャンルを横断しながら縦横無尽に語る松岡正剛さんの語り口はそれまで読んでいたどんな本とも違う輝きに溢れていた。
例えば冒頭近くのこんな文章。
「「弱さ」は「強さ」の欠如ではない。
「弱さ」というそれ自体の特徴を持ったピアニシモな現象なのである。それは、些細で、こわれやすく、はかなくて脆弱で、あとずさりするような異質を秘め、大半の論理から逸脱するような未知の振動体でしかないようなのに、ときに深すぎるほど大胆で、とびきり過敏な超越をあらわすものなのだ。部分でしかなく、引きちぎられた断片でしかないようなのに、ときに全体をおびやかし、総体に抵抗する微細力を持っているのである。」
今から約30年前、とても心ひかれたこの文章を引用しながら、僕は昨日観た映画『アナウンサーたちの戦争』のワンシーンを思いだした。
それは森田剛演じる天才と呼ばれたアナウンサー和田が、1943年10月21日神宮外苑で行われた雨の学徒出陣壮行会の実況を命じられながら、そのために取材した学徒一人ひとりの本心に触れ、その罪深さに葛藤した末実況直前に語る事ができなくなり、放送席から逃げ出し激しい雨の中で崩れ落ちるシーンだ…
語る事を生業とし、自身の持つその力を誰よりも信じていた和田が語る事ができなくなる事は自身のアイデンティティが崩壊するに等しい事だったと思う。
森田剛はそんな和田の葛藤と弱さを自分自身のものとして見事に演じていた。
その姿に僕は「フラジャイル=弱さ」の美しさを感じ、先の松岡正剛さんの言葉を思いだしたのでした。
松岡正剛さんの御冥福をお祈りいたします。