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愛がなんだ、を観て

始めに

心に何か変化があったとき、日記を書くようにして3年が経った。恋愛のことばかりを書くので今も1冊のノートが埋まらないまま、残り数ページを残している。今年度は就職前の最後の年で、お金がなくとも時間があるのは今だけなのではないか、ということと、2年ちょっと付き合った元カレと別れたことで自分が自由であるという自覚を持ったので、イベントごとには積極的に出向き何かあればインスタにあげよう、と目標を立てた。まではよかったけども、実際に顔を合わせる知り合いは私が何をしたかなどぶっちゃけどうでもよくて、完全に自己満足だなと気づいたときから、インスタに投稿するのは不適当なのではないかという思いが出始め、ならばこの日記をデジタル媒体の何かで新しく書き起こそう、と考えたのがこの記事を書くきっかけである。たぶんこんなの誰も見ないので、何かあるたび好きなことを好きなように書こうと思う。中学生のブログと同じだ。

自分を好きだという態度が気持ち悪い

題名にもある通り、今日新宿で「愛がなんだ」を観た。彼がわざわざトークイベントセットのチケットを取ってくれたので、なんたらという女優さんと監督のおしゃべりも一緒についてきた。やはり実物は綺麗で、自分の容姿の醜さに悲しくなった。というのはさておき、誰かに読まれる想定であまり書く気がしないのであらすじは省くが、自分はマモちゃんやヨウコちゃんと同じ部類の人間なのだろうと思う。高校の時に付き合っていた彼氏のことを思い出す。あの頃周りの友達は、私たちカップルのことを主従関係と呼んでいた。自分としてもひどいことをしていた記憶はあるけれども、2人きりのときにはしっかり気持ちを表していたからよいのだと思っていた。なぜそんな態度をとっていたのかと考えれば、他人からカップル感を悟られたくなかったという気持ちと、尽くしてくれるところにつけこんでいたというところもあったような気がする。いや、自分が彼を傷つけたいという歪んだ精神もあったのかもしれない。どちらにせよ彼には悪いことをしたなあと思う。

「好き」ってなんだろう

今の彼氏にも同じようなことを思ったりもする。自分のことを好きな態度をとられると、なんだかいじめたくなって、うざったくなって、突き放したくなったりする。好きな気持ちはあるのに、自分のこの腐った心がそうさせているのかと考えると途端に自分が嫌になる。「好き」とは何なのか私にはまだわからないけれども、「好き」という気持ちの中には絶対に相手への依存と執着があって、単純に好みだったり、気になる対象だったものへの独占欲がいつの間にか居なくちゃ生きられないという依存になり、それが執着に代わるのだろうか。そうなっていくのは仕方のないことで、付き合う中で変わる相手への気持ちに理由を何度も見出して意味づけをすることが人と長く付き合っていくということなのかもしれないなあと考えるようになった。でも私は依存しない恋愛がしたいし、1人で歩ける人間でありたいと思う。男女が対等にあり、1人で歩いていける2人が、同じ道を歩むことが、幸せな人生なのだと信じてきた。でもそれは、他人からの依存が重いと思ってしまう私の未熟さと、そこから逃げたい私の臆病さでもあるのかもしれない。自分はまだ、恐ろしいほどに好きだと思える相手に出会っていないだけなのだろうか。

追記

Twitterで、ほかの人の感想を読んだ。どうでもいい人には気楽に自由に振る舞えるが、大好きな人にはそうはいかず、機嫌をとるのに必死になってしまう(詳しくは書きません)という内容で、なるほどあの立場は気質の問題ではなく、誰でもどちらの人間にもなる可能性はあって、あの映画の中ではたまたまテルちゃんとナカハラくんが片思いをしている、ということでもあるのかと、合点がいった。映画の中でナカハラくんが、俺らみたいな人は、というようなくくりをして話していたので勝手にその人自身の生まれ持ったものなのだと思っていた。だとするとやはりわたしは狂うほど好きになれる人に未だ出会えていない、という結論になる。お互いがお互いをあんな風に好きになれるとは思えないし適度な好意のなかで付き合っていくことがわたしの信じてきた結婚観なのか。

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