ローマ帝国の終わりと中世の幕開け
二人の王によって少し安定する
ディオクレティアヌス帝(在位284~305年)
軍人皇帝時代の混乱を収拾し、皇帝という地位をさらに強大にするために、
皇帝を神として崇拝させ、政治体制を元首政(プリンキパトゥス)から
専制君主政(ドミナートゥス)に切り替えました。
また、領土が強大になりすぎていたローマ帝国を西と東に分割し、
それぞれ正帝と副帝の2人、合計4人で協力してローマ全土を統治するという
四帝文治を行い、帝国の支配安定を図ります。
キリスト教の大迫害
303年、最大のキリスト教大迫害を行いました。
自らをユピテル神になぞらえ、神としての皇帝崇拝と、伝統的なローマの
神々への祭儀への参加をキリスト教徒に強要しました。
エグい迫害内容ですが、キリスト教徒を円形闘技場に放り出してライオンに
喰わせるといった公開処刑、当時作り始められていた聖書の原型となる書物
を没収し焼却、教会の財産没収といった信仰の拠り所を潰していきました。
こうした経緯からディオクレティアヌス帝は、ローマ安定に貢献しました
が、後世のヨーロッパ世界では評判が良くないです。
引退後はキャベツ作りおじさんと化す
ディオクレティアヌスは55歳で早期退位し、その後はキャベツ栽培に
勤しみました。帝国で市民戦争が起きている時も、友人に自分の作った
キャベツについて熱く語っており、在位中にエグい大迫害を行った人物とは
思えない余生を過ごしました。
コンスタンティヌス帝(在位306~337)
ディオクレティアヌス帝の政策を引き継ぎ、専制君主政を確立した
コンスタンティヌス帝は、帝国後半期の最も重要な皇帝であり、正式名称は
コンスタンティヌス1世といいます。(別称:大帝)
ディオクレティアヌス帝とは逆に、ミラノ勅令という命令を出すことで
キリスト教を公認します。当時、キリスト教信者の勢力が無視できない
レベルで成長したので、力を借りることで国をまとめてやろうという考えに
なりました。
また、かの有名な凱旋門はコンスタンティヌスが父の死後、正帝争いで
ミルウィヌスの戦いに勝利し元老院から正式に正帝として承認された際に
建造されたものです。
ディオクレティアヌス帝と違って嫌われていない点
ミラノ勅令
正帝となった翌年の313年、西の制定を名乗っていたリキニウスとミラノで
会談し、同盟関係及びキリスト教を公認することに取り決めました。
これをミラノ勅令といいます。
しかし、リキニウスはその後キリスト教の否定に転じ、キリスト教徒の迫害
を行うようになりました。そのため、コンスタンティヌスと皇帝同士の
対立することになり、324年のアドリアノープルの戦いでコンスタンティヌス
が勝利したことでローマ全土にキリスト教は公認されることとなりました。
ちなみにこの戦いの時、天に燃える十字架の影と、
「この印によりて汝は勝つ」という言葉が空中に浮かぶのを見て、
十字架を押し立てて戦ったところ、勝利を得たことでコンスタンティヌス帝
がキリスト教を侵攻するきっかけになったそうです。
ニケーア公会議
イエス=キリストが世を去ってから300年以上が経過していることで、
解釈を巡って異なる意見も出てきていました。特にイエス自身を神と
認めるか否かについては重大な論点として挙げられていました。
コンスタンティヌス帝は、自らその問題解決に乗り出し、325年に
ニケーア公会議を主催し、キリスト教の教義の一本化を図り、
父なる神と子なるイエスは同質であるとするアタナシウス派を正統とし、
子(イエス)が父(神)に従属するとするアリウス派を異端としました。
コンスタンティヌス帝は、ネロ帝の時に殉教した使徒ペテロの墓所(礼拝所)
に教会を建設させ、それがサン=ピエトロ大聖堂となりました。
都を移した
リキニウスとの戦いに勝利し、ローマ帝国の再統一を成し遂げた
コンスタンティヌスは、330年に新都をビザンティオン(ビザンティウム)の
地に建設し、コンスタンティノープルと命名しました。
(実質の首都移転はテオドシウス帝の時期)
このコンスタンティノープルは、「第二のローマ」と言われ、後には
東ローマ帝国の都として長く継承されることになります。
また、租税収入安定を図り、コロナトゥスを強化したり、ソリドゥス金貨
という基軸通貨を鋳造発行することで帝国の経済的統一を維持しようと努め
ました。
悲惨な晩年
大帝という名を持つ通り、身体も大きく威圧的な風貌であった
コンスタンティヌスですが、死が近づくにつれて反動のように悲惨さが
目立ちます。
ニケーア公会議では、アリウス派を異端として断定していましたが、晩年に
はエウセビオスの影響を受け、逆にアタナシウス派を追放しています。
肉親関係でも晩年に生まれた3人の子供(名前がややこしいので紹介しません)
や親戚にまで高い地位を与えたことで337年の大帝死後、一族間で
激しい争いに発展してしまいます。
最終的にコンスタンティヌスの子供を倒したユリアヌスによって
キリスト教公認を取り消すという反動の時代を迎えることになります。
長生きすると最後まで立派な人って少ない気がしますねー…
ゲルマン人が大量に流れ込み帝国崩壊
ディオクレティアヌス帝とコンスタンティヌス帝の改革により、ローマは
一時的に安定しますが、膨大な国境線を維持する軍事費と官僚を
支えるための費用が膨れ上がったことで、財政は破綻し、属州が反乱を
起こし始めます。
加えて、ゲルマン人大移動によって異民族が帝国内に流入したことで、
オワコン状態になります。
テオドシウス帝(在位379~395年)
ローマ帝国末期の皇帝。元は属州出身の軍人でしたが、378年に
皇帝ヴァレンスが西ゴート人とのアドリアノープルの戦いで戦死したことで
急遽指名されて皇帝となりました。
テオドシウスは、早くからキリスト教の洗礼を受け、元老院にも
キリスト教信者が多かったことから、キリスト教以外の宗教を厳禁し、
キリスト教を国教と定めました。
ローマ帝国の東西分裂
広大すぎる帝国を一元的に支配することが困難になっていたことで、
テオドシウスは息子のホノリス(16歳)を西ローマ皇帝に、
同アルカディウス(18歳)を東ローマ皇帝に指名し、
東のコンスタンティノープルを都とする東ローマ帝国とその他の西方都市を
都とする西ローマ帝国に分離したことでローマの東西分裂が確定しました。
(ただし、当時は国制上1つの国家と考えられており、このような言い方を
されたのは後になってからです)
そしてテオドシウス帝の死後、ローマが再び1つになることは
ありませんでした。
こうしてローマ帝国は終わりを告げ、「中世」の時代に突入します。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?