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口を切った人用、さましたおかゆ。バナナと豆乳のスムージー。【物語・先の一打(せんのひとうち)】7
車のキーと家の鍵と腕時計を、高橋は靴棚の上のトレイにかちゃりと載せた。
部屋は、こざっぱりしていた。
高橋と四郎が、懸命に片づけたらしかった。
そのそうじの仕方をみたとたん、いっぱいいっぱいなのは高橋だ、と奈々瀬は合点がいった。
一緒の車に乗っていても身体情報読みの奈々瀬に気づかせないほど。
隠した、いっぱいいっぱい。
ものすごく無理していることを無理と思いもよらずに、自己犠牲の上にさらに持ち出している子供。奈々瀬もそうだけれど、高橋がそうだ。
しかもささくれだっている奈々瀬と違って、高橋にはみじんの怒りもない。恐怖でとっちらかりながら、なおも助けの手をのべる。
(ああ、だから)奈々瀬は思わず、部屋の奥へ先に歩いていく高橋の、背広の背に触れた。(魔法使いのマントみたいに感じるのは、それで)
家族がなにかを強要したり、危害を加えたり、ひずんだ価値観を押しつけ続けたりするときに……
家から物理的に離れるよう勧めることができるのは、がまんや躊躇があだになることを、すでに知っている人だけ。
長年その場で持ちこたえようとしたり、期待に応えようとしたらどうなるかを、知っている人だけ。
背に触れられた高橋は、一瞬固まった。なにもいわずに、チェンジポケットつきのグレー、いつものポール・スチュワートをするりと脱いだ。ベストとYシャツになり、腕まくりをして手を洗った。
奈々瀬を食卓にかけさせ、高橋はかなり冷ましたおかゆと、冷えすぎないよう常温に置いたバナナ豆乳スムージーをミキサーで撹拌しなおしたものとを持ってきた。ストローが一本。小ぶりの木のさじがひとつ。
四郎が奈々瀬に伝えた。
「食べれたら食べて。いらんかったら無理せんといて」
こくりと奈々瀬はうなずいた。夜気にひえた土鍋の肌を指でさわった。
さっきはコーヒーの熱さで、口の内側が痛かった。おかゆもスムージーも、殴られ慣れている四郎が、高橋に教えながら作ってくれたのだとわかった。
ふだん、スムージーなんて四郎の生活習慣の中にはないのに。
ふだん、学業に差し支えない殴りかたをされていた四郎は、口のなかなんてごくまれにしか切らないのに。
奈々瀬はマスクのすきまから、スムージーのストローを大丈夫なほうの口のはしでくわえてみた。
それから観念して、マスクを外した。
「冷やせとらんやん」四郎がひそめた声を出した。高橋は視線をはずして、殴られた奈々瀬の顔をみないように、そのまま食卓にすわっていた。
四郎がダスターをしぼって、小さく折りたたんで奈々瀬に「はい」と手渡した。
おもわず高橋は、「四郎さあ、そういうときなんでいつも、ダスター使うのー」とあきれた声を出した。つい先ごろ、楷由社(かいゆうしゃ)の重役会議室で、自分が泣いたとき給湯室から持ってきてくれたのが、やはりダスターだったからだ。
あのしけった匂いには、笑うしかなかった。
四郎は意外そうに口をとがらせ、「やってお前がうち来てくれたときさ、お前俺の背中に手あててくれて、涙ふくとて台ふき渡してくれたやんか!」と言った。
「あ、僕か。最初にやったの」高橋はおもわず、くすくすと笑いだした。「ごめん。いやあごめん」
そしてそっと言い置いて、席を立った。「部屋着にきがえてくる」
ふたりきりになって、四郎はそっと言った。「学校も家も、いっぺんほかって(放り出して)まってええでさ。がんばったらあかんよ。やる気の起きんことは、何日でもほっときゃええで、ゆっくりせやええで、えか」
そして奈々瀬の手の甲にそっとふれて、もう片方の手で、奈々瀬の頭をなでた。
「こんななでかたで、いいか。いややったら、言やあよ」
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