本来、ひじょうに怖い男です ーー成長小説・秋の月、風の夜(86)
#16 対峙
鹿野課長は会議室で、高橋と四郎を交互に見ながら、土田の暴言を報告した。
高橋は「念のために事実ベースで詳しく確認させてください」と、鹿野と四郎から、具体的に土田が口にしたひとことひとことを正確に再現させ聞き取った。
言葉が曲がって伝わっているとき、憶測や解釈が入る。逐語で正確かどうかは、高橋がとても大切にする点だ。四郎はある程度慣れているので、その通りに土田の発言を再現した。
鹿野課長はおどろきを隠さなかった。
「発言についての事実を扱うとは、当人の口から出た言葉そのままを正確に扱うことである」という、実務とキャッチコピーとコンサルティングにおいてだいじなことを、現場ではじめて教わったからだ。
言語表現を扱う会社でありながら、「出版-文学」という情緒感情の編集業務をメインとするがゆえに、楷由社社内にはその教育の伝統はなかった。
楷由社で頭抜けるチャンスを、自分がたった今得た……と、鹿野は思った。
「四郎」高橋は鹿野の話を聞くなり、四郎を見た。「僕が有馬先生に電話でどなられたのと、たぶんほとんど同じタイミングでどなられたな。どなられ事件が二人してお揃いだ、ふしぎなこともあるもんだ。僕もえらくへこんだが、お前と一緒だったんなら、なんか気分最悪から脱出できた」
「うっそー、有馬先生怒らした?」四郎は高橋を見た。
「マジ切れ。耳チーンて感じだったよ」
高橋はそれから、「四郎、徹さんにはわーっと頭ごなしにどなられるんだけど、土田さんは四郎に面と向かっては言葉を浴びせることができなかったの、気づいた?」と投げかけた。
「あっ」四郎は高橋の指摘に驚いた。「そうやん、天井向いて……」
「そこ、ちょっとした脱出のヒントだ」にやりと高橋は笑った。
「僕は頭ごなしにやられたな。譲さんとやった朝の打合せ、ほら、四郎がいなかったときにさ。有馬先生への根回しは、こんな急ハンドル切るんじゃ、説明も説得も無理だってんであきらめた。だから譲さんと打ち合わせた通りなんだけどさ。
僕を悪者にしていいよって言ったらば、譲さんほんとにとことん僕を悪者にして逃げやがった。
あのオヤジ、宮垣先生に土下座してビジネスチャンス取ってきたって聞いたから、男気あるなあなんて思ってたら、とぼけすぎだよー。
次から銀座の飲み代、ワリカンやめて全額払わせてやると心に決めた! もう尊敬してやんねえ!」
高橋は四郎に口をとんがらせて話した。
目の前で自社の社長を「あのオヤジ」呼ばわりされている鹿野は、張りついた笑いで口をとじていた。
☆
「高橋でも怒られることあんの? うそみたいやん」
「十八歳から怒られっぱなしだったからこそ、僕はいま、こんな感じで仕事してんだ。中澤のオペコンなめんな」
自分だけが無能感をつのらせていた四郎は、高橋の話に気がまぎれた。かすかに笑った。
「鹿野課長、改めてご説明するまでもなく、こいつとんでもなく強いですから」高橋は鹿野に、妙に低いささやき声で言った。「相手を委縮させないように、わざとおとなしそうに装って、苦心して圧を消しています」
そして一呼吸おいて、告げた。
「本来、ひじょうに怖い男です」
鹿野は、自分も息をひそめた。すっかり高橋の息づかいに呑まれていることに気づかない。
高橋は妙に低いトーンのまま、四郎に話した。
「四郎、もし僕が土田さんにどなられたら、って思いうかべてみて」
そういわれたとたん、四郎の表情が沈んだ。ちら、と(ただでおくか)という気分がわいたに違いなかった、すなわち鹿野課長が委縮し蒼白になった。それに気づいた四郎は、(おっとっと)と兇暴な気分をひっこめた。
「嶺生(ねおい)くん、とにかく君にとりましての職場環境が快適でありつづけるように、できるかぎりのことをしますから」鹿野の声は抑えようもなく裏返っていた。「少しでもやりにくいことがあったら、すぐ、どんな小さなことでも、おれに言ってください」汗ばんだ手を握りしめて、鹿野は思わず「なんでもします」となんども叫びそうになる自分をギリギリ落ち着かせた。
「ありがとうございます」四郎はホッとしたように答えた。
鹿野は「実務面でおれが抜けていることは、どんどん指摘してください」と高橋に頼むことを忘れなかった。
「鹿野課長にそこまで言って頂けるなんて、感激です。僭越ですが、率直に申し上げることがありましたら伝えさせて頂きます。ぜひ四郎へのご配慮よろしくお願いします」と高橋は応じた。
十分で鹿野課長とここまでの信頼関係を築いてしまえる高橋を、四郎は口を半開きにしてみていた。
「そういう意味では、最初にお願いがあります」高橋は鹿野課長に話しかけた。
「なんでしょうか」
「いまの時点では、四郎が無理して標準語を使おうとするとき、こいつの話はぎこちなくなり、相手との壁感が出ます。社内外のどんな相手とも岐阜弁でしゃべれるように、出向く先に、先回りで説明を通してやっていただくことはできますか」
「あっ。……そうですね、わかりました」鹿野が目を輝かせた。鹿野も、四郎との話に快適感を持ちづらかったらしい。
「そうか、おれと話すときも、土田と話したときも、懸命に標準語だったな。高橋さんとは岐阜弁丸出しでしゃべるからな」鹿野は笑顔をみせた。「岐阜弁でええて、嶺生」と、岐阜弁で言った。
四郎はあっけにとられた表情で、鹿野課長をみていた。
高橋のように説明ができたら、例外的に温情措置をとってもらえるのだ。
ビジネスルールとは戦場訓のようなもので、必死で合わせなければならないと思っていた。自分のために曲げてもらえるなんて、思いもよらなかったのだった。
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