子の刻参上! 二.くものいづこに(二)
「へべれけになるまえに、鼠をあの座敷から、連れ出してはくれぬか」
火打石にてこずっていた益田時典は、小山にした落ち葉を見つめたまま、そうつぶやいた。
「承知」
と、はるか後方にひかえていた狐がこたえた。
町もののすがたにこしらえた狐がそっと障子をあけて、入り込んだその場では……
「はっはっは、おめえさんはいっつもへび(人差し指)しか出さねえ!」
と、蛇拳に連勝している次郎吉が、だいぶきこしめした様子で大笑いしている。
須走の熊公はといえば、とっくに酔いつぶれて、座敷のすみにぞんざいに転がされてあった。しあわせなくらい大いびきを放っている。
「だって、なめくじ(小指)の形ぁ、作りづらいのだもの」
酌のねえさんがくやしがって、「もうっ」とふくれっつらで罰杯をなみなみつがれるが、
「おう、よせやい、よせやい、おいらが飲んでやらあ。このあと、坊がごはんを待っているのだろ? おっかがべろんべろんで帰ってきたんじゃあ、腹はすくわ抱っこしてほしいおっかは酒くせぇわ、おいらが飲ませたせいで坊がおっかを嫌いになっちゃあいけねえ」
罰杯をするんとした手つきで引き取って、きゅっとあおった次郎吉の、酔ってはいるがいい笑顔だ。その杯をさらに見えぬようなすばやさで取り、狐は次郎吉に声をかけた。
「さ、親分、三すくみはいったんおしめえだ。せっかく親切にしてやったねえさんが、坊のところへ帰れるようにしやすよ。仕事のおしたくだ」
こいつは誰だ?という顔で次郎吉は狐の顔を覗き込む。ふだんの装束とは違う狐、有無をいわさぬ笑顔で次郎吉の酔いを少々さました。
「おう、坊にこのたまごやき、持ってってやってくんねえ」と、次郎吉はさっきの蛇拳の相手のねえさんに声を投げた。
狐は宴席の一同に、意外なことを申し渡した。
「皆さんへご祝儀、ご差配に預けておいたぜ。ばくち狂いと飲み助にゃあ、悪さが治るまでは一分っきり。おとうおかあや家族を看病してるものと、がんぜない子がいる者は、その人数(にんず)分。今までのやりようはしねえ、と約束させておいたから、ご差配んところに顔出して、受け取っていってくんな」
みなが驚いた。
今までのやりようはしない、ということは、ひとりで蓄財に励んだりはしない、ということだ。
「じゃあよ、あばよ、また飲ませてくんな」
と、ひらひらと手を振って、次郎吉は狐に肩を貸されて座敷を出た。
座が割れたので、次郎吉はかなしそうに、狐を見やった。「んもう、あと三合ぐれえ、飲ましてくれてもいいのによぅ」
「親分さん、酒にもばくちにも、お屋敷からのおさらばと同じ、おさらばのしどきがございやすよ」
普段つかわぬ言葉づかいで、狐は笑って答える。
狐は、歩の不確かな次郎吉を、等身の傀儡をつかうようにすべらかに歩かせて、草履をつっかけさせた。水場で丸薬をひとつぶ。
「これを」
言った狐の所作は、もう町人振りのそれではなくて、どこかに忍び込むときの冷えた動作。いわれるままに次郎吉は丸薬を口に含み、渡されたひしゃくの水で飲み下した。
「ああ、こいつは。なんだかふわっふわした感じがすっとどっか行っちまって、さびしいったらありゃしねえよ」
「われらが寝首をかくときは、相手をふわっふわさせておいて斃しもするのだ。鼠よ、しくじってくれるなよ」
「ちげえねえ」次郎吉はもう一杯水を飲み、そして顔を洗った。
「仕事だと言ったが、まさかこれからひとっ走りするには、おいら、飲みすぎちまったい」
「なに、火打石でたき火をたきつけて、銀杏を焼くしごとだよ」
「なんだい、そりゃあ!」
狐は、さもゆかいそうに笑った。
「坊、はじめてだろう、ごちそうのたまごやきだよぅ」
こちらのねえさんも酒臭いのを水で消し消し、坊がみたこともない竹の皮づつみのだし巻きたまごと、飯盛りが気をきかせてくれたおおきな握り飯に香の物。
「うわあ!」
腹をすかせたままばあさんに寝かされていたのを、起きてきてがっつく坊の食べっぷり。
ねえさんはばあさんに、嬉々として話しかける。
「お江戸の瓦版で評判の、鼠小僧次郎吉ってえお人がさあ、お大名屋敷のご金蔵を破っては、貧しい者に恵んでくださるんだって」
「おやまあ」
「坊が待ってるだろう、酒くさくっちゃあいけねえ、って、あたいの罰杯、飲んでくれたよう。惚れちゃうようないい男だよ」
そしてふところから、差配がなにかにおびえるように、はずんでくれた懐紙包みの一分銀を、何枚も。
「ほらあ、たんとご祝儀!!」
「ひゃああっ!」
「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!