俺の代で全部、潰してやる。【物語・先の一打(せんのひとうち)】33
風呂上りの奈々瀬を待って、部屋にいた。
おちつかない。おちつかなさを振り捨てるように、四郎は実家の道場での演武の所作を、もういちどなぞっていた。
片足を踏み込んで小柄(こづか)を投げた。康おじが小柄を払った。へそ前で鯉口を切る。鞘をうしろに抜き捨て。刀の重みをまっすぐ康おじに振る。
二歩半を直って四郎は元の位置に戻った。もういちど動きをなぞる。
片足を踏み込んで小柄を投げた。康おじが小柄を払った。へそ前で鯉口を切る。鞘をうしろに抜き捨てながら横になぐ。
二歩半を直って四郎は元の位置に戻った。もういちど動きをなぞる。
片足を踏み込んでへそ前で鯉口を切る。鞘をうしろに抜き捨てながら横になぎ、かわした康おじに小柄を投げざま切りかぶせる。
「寒いで、中はいりゃあ」四郎は背中で奈々瀬に声をかけた。薬箱をひらいた。
脇腹も紫の内出血に黄色がまじりはじめていた。手当をひととおり終えて、四郎は「風呂もらってくる」と言い置いて部屋から出た。
殺し技のはじめは、自分が死ぬところから。
三歳で切腹作法を習うのは武家の子だから。二歳や三歳で舞台の披(ひら)きがある家の子もある。舞台の披(ひら)きには赤飯が出る。よくできたといって喝采と拍手がもらえる。切腹作法は扇子で介錯されるところまで。死ぬことがよくできましたとほめられ、猫足膳に尾頭つきが出る。死に方、負け方から人の壊し方、人の殺し方へと稽古が続く。
「見とれよ、ご先祖さまんら」
さきほど車内で「ええ加減に黙れ!」とすさまじい声を響かせた四郎だった。演武のなぞりに没頭していると、もうすでに静謐な殺し殺されの世界に戻っていく。
自分の原稿の続きを書く、ハートのラテアートのコーヒーを飲む、という、まるでまっとうな人間みたいな体験のあとで。
「俺の代で全部潰したる、見とれよ」
一子相伝であるということは、晴れて伝人となってから、伝え技のすべてを闇に葬る権限をもつということだ。
弟の徹志は切腹作法を習っていない。誕生会をしてもらえる。友達がいる。誕生日のケーキを食べさせてもらえる。幼稚園にもいけた。かわいがられ、子供らしい生活をさせてもらえていた。大学受験の準備をしている。剣道は学生剣道。古流を習っていない。
四郎は三歳で切腹作法、祝い膳はそのときの一度きり。誕生会はない。友達を作ってはいけないと祖父から厳命されていた。甘いものはなし。毎日四ー五時間の稽古。説教で泣かされるのは一時間。正座はとにかく長い。道場の掃除は四郎の役目。型を三度で覚えなければ殴る蹴る。高校生になってからは、朝は四時半起き、夜は零時まで稽古。
だが……だが、母があたたかければ、人に愛着でき人を信頼できていたかもしれなかった。
母乳は十時、十二時、三時にそれぞれ十分限りで、泣こうがわめこうが母からは離され、祖父が背負って育てたが、それは四郎だけの育てられ方で、父も祖父もそんな育てられ方はしていない。それどころか峰の先祖返り誰一人として、そんな育てられ方はしていない。
高橋は言っていた。「その母乳の与え方、十分だけで無理やり離される繰り返しが、愛着障害の原因じゃないか」と。「最初に繰り返された学習がそんな無情なものだと、誰だって安心も安堵も人への信頼も得られないだろう」と。
湯から出た。
脱衣所で全身を拭き、寝間着を着た。
冬には、父親に引き斬りにされた傷が、うずくように痛む。左の鎖骨と動脈を走る深い傷。
部屋へ戻ると、奈々瀬はすうすう寝息をたてていた。
一瞬、(誰だ……?)というふしぎな感覚に惑うて、四郎は愕然とした。奈々瀬なのに。
がくりと膝を落とすように、しかし音をたてずに膝をついて、四郎は奈々瀬の眠る布団のよこに正座をした。
まるで、まるでいつかの夜、高橋が思い浮かべた丹下左膳と姫君の構図のように。
ふっと奈々瀬が目をあけた。「どうしたの?」
かなり、しゃべりにくかった状態から回復していた。
「なんでもない」四郎は二ひざを後ろに引いた。「おやすみ」
自分の布団の中に入った。奈々瀬に背をむけて目を閉じた。
ーー自分はどうしたいか言っても却下されない安全な場があるなら、俺もそれはほしいです。自分で主体性をもって作れるかてって言うと、それは無理で、俺の場合は高橋が頼りなんやけど。俺自分を自分で育て直して、できれば、俺の子供時代を押しつけんのびのびした子供を、二人ぐらいは育ててみれるような大人になってみたいなあと思います。あと仕事が一人前にできるようになりたいなあと思います。あと自分の父親と、ちゃんとしたコミュニケーションが取れるようになりたいです。あと俺、すごい変ないきさつで写真の中の人と約束してまったことがあって、自分の書き物書きたいなあと思います。
ああ、あの夢は前向きで建設的で、まるでまともな人間の夢のようだった。
奈々瀬がそっと、四郎の背中に手をのばした。
「寒いであかんて。傷したとこ、痛いことないの?」
そう聞く声は震えていて、たぶん泣いていた。
「ちょっとだけ痛い」奈々瀬は答えた。
「奈々瀬、俺にさわったらあかん。俺、まともな人間やないで」
「こっち向いて」奈々瀬は四郎に言った。「こっち向いて、そーっと痛くないように、頭をなでてほしいな」
何を言っているのだろうこの人は、と四郎は思った。あと二歳だけ年が上ならば、あっという間にご先祖さまたちに首をへし折られて血をすすられてしまって、ここには死骸が転がっているというのに。何を言っているのだろうこの人は。そーっと痛くないように頭をなでろと。何を言っているのだろう。
四郎は涙があふれてくるそのままで、奈々瀬に言われたとおりに背中を向き直って、寒い寒い布団の外に身を横たえているままの奈々瀬を、掛布団を大きくあけて迎え入れ、「いたた」という奈々瀬の体を布団の中でそっとそっと抱き寄せた。あの「たゆん」という感触の胸が、びっくりするような弾力を四郎の体に伝えてきた。四郎はしゃくりあげながら奈々瀬の頭を手のひらでなで、耳たぶに口づけをした。みじめで、何がなんだかわからなくて、ちっともうれしさのかけらもなかった。ただ、ただ、あきらめと絶望と憎しみが渦巻いたままで奈々瀬の言う通りに頭をなでてやっている自分は、なんなんだろうと思っていた。みじめで、何がなんだかわからなくて、先のみえない苦しみだけが全身を浸していた。