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子の刻参上! 一.あけがらす(九)
「湯治宿で養生させてもらえるそうだから、逗留の間はおとなしくしてんだぞ。誰にも、この話、しちゃあなんねえぞ、いいな」
熊にくどいほどくぎを刺した。が、いっぽうで次郎吉、この熊には “相手を選んで、話すか黙るか考える” という脳みそは、ついてないんじゃあねえか……とも思った。思いつつ、もういちど言ってみた。
「誰かに話したらば、こんどはそいつが番所にひっぱられて、またまた、おめえも、おいらも、合わせてご災難とくらあ。お口は閉じててくれよ、たのむぜ、熊」
釘をさしながら、無理なことを頼んでいるなあ…… と、しみじみ思った次郎吉だった。
「じゃあよ。あばよ。行くからな」
手当てのつづく熊にそう言いおいて、次郎吉は部屋を出て、生垣をすり抜けた。
歩き出す。
ふところ手して、星空をみあげて、はあああ、とため息をつく。
また歩き出す。
ふわりと、くちなしのいい匂いがした。
「誰でぇ」
誰だと言ってはみたものの、こんないいにおいをふりまく者は、一人しかいない。
おんな若衆の益田時典、若衆髷に羽織、袴と脇差のいでたち。錫色の羽織の下に、萌黄の濃淡をかさねている。昼の日の下ではできない、ぜいたくな着合せだ。
「夜に、出歩くもんじゃねえですよ、若様」
「迎えにきたのだ」
お武家が町ものを迎えに来るとは、異なことを言う、と次郎吉は茶化した。茶化しながら、そういうことではねぇな、とは頭ではわかっていた。
益田は言った。
「首尾は気になったが、小者だの同心だのが聞きまわる先には迎えに行けぬ。ここならよかろうか、と」
そして、ふふ、と笑った。
「眠くてならぬ」
次郎吉は答えた。「せっかくの出迎えだが、首尾はおいらには半分しかわかんねえ。熊公は助け出してもらった。三人ぐれえ押し込めにあってたお武家が、お武家装束のおいらを、“青木様” と大声で呼んだな。おいらは黙ったなりで出てきて、きつどんに抱えられてどっかへ連れていかれて、お武家装束を無事に返した。その前に、どっかの乱波もんが、すとんと天井からおちてきて、錠前の鍵をぴゃっぴゃと投げて配って、さいごに書付をつぎつぎ、火にくべてた。大騒ぎになって、逃げてったもんもいりゃあ、近くでかけつけた捕り方ともみあいになったひと群れもいた」
「そうか、そうなったか」益田は「それだけ聞ければ上々」と、まっすぐに次郎吉を見、次郎吉はどぎまぎした。
「ときに次郎さん、お前の考えのめぐらし方は、少し息を吸ったり吐いたりしながら、稽古をつんでみてくれると、さらに私はよい目とよい助けをもらえるのだが、どうか。今のところは、せっかくの知恵のまわりの速さが、つるっつる、からすべりして、ぬし自体がくるしんでおらぬか、とも見えるのだ」
「どういうことをおっしゃってるんで?」
「今、私になにか言いながら、そういうわけではないな、とも考えて、それをいちどきに流れるままにしていたようすだった。話が半分。あと半分、裏で考えがわいてきて、どこかへふらつくようであったろう。その両方のことに、それぞれ半身が入って、御身の肚の底からを使えぬまま、御身の上のほうで流れているのだ、ちがうかな」
「ううむ、それにちげえねえ」
「そうか」益田の話の穂のつぎかたは、まるで碁盤の打目を押すように、入念であった。
「それでは、続いて私が、もすこし詳しく話してみても、いやな思いはせぬか、どうか」
「聞かしておくんなせぇ」
「うん」益田は地べたを踏む自分の草履の、つま先を見つめ、かすかにうなずいた。
「だいたいがよう、おいらみたいな半ちく者が、いやな思いをするかどうかなんて、お武家さまには一向にどうでもいいこった、ちがうかい」
「それは、こと私が、かじった兵法を実地に敷き延べるには、ぬしにひとつずつ聞かねば次の支度が成らぬのだ。次郎さんだけではない、狐についてもだ」
「なんだって」次郎吉は驚愕した。「手下(てか)の下忍も、そう扱っていなさるんかい」
益田は次郎吉をきろりと見た。
「私が脇差を抜くときに、もしも脇差の切っ先が腹を立ててそっぽを向いていて、無駄なく相手を刺せるか」
「刺せねえな」
「私が念入りに支度をしておくのは、そこらへんのことだ」
「こまけえお人だな」
「軍師にはなれぬよ、ふふ」
益田はわらった。わらって、すっと次郎吉を見た。またもや、次郎吉はどぎまぎした。
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