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牙なきひとの代弁者【物語・先の一打(せんのひとうち)】60
奈々瀬はいまや、早鐘をうつ心臓と呼吸のできなさに打ち倒されていた。それはまるで、なにかと相打ちして転がっている死体の気分だった。自分は滅びた、しかし何かを滅ぼした、とでもいいたげな。
かつて ”なぞってつな” がれたとき、四郎が特殊な読み方で取り込んだ本の数々についての記憶が、奈々瀬のなかにも大量に流れ込んできて、そのまま、ぼんやりとした輪郭をかたちづくっていた。
四郎は外界の事象を、 「読んだ書物でいうと、あれと同じ」 というような整理でとらえるのが好きだ。
そして四郎の「読んだ」とは、道場の廊下の本棚近くで正座しているときに、ランダムに「その日、手に取ることができた本」のランダムな一ページを、開いて・閉じて・記憶の中で反芻しながら消化していく、という行為だ。見つかって二度とこの楽しみが味わえなくなることを防ぐのが一番大事なこと、通読などというぜいたくは、初めから手の届かぬ、大人になったらできる夢物語みたいなもの。
四郎はその記憶庫でだけは、たとえようもなく筋肉も呼吸もリラックスした状態で逍遥していたので、奈々瀬もまた、その状態記憶は好んでいた。
他人は「自分の大切にしたいことを大切にする」という一点を、守ってくれるどころか、そこを土足で踏み破ってくる。
自分の理屈、自分の価値観、という土足で。
書物は生身の人間ではないから、自分の主張を伝えてくるだけで、それを取り込むか取り込まないかは、読んでいる自分次第。
書物を見て、取り込む、という人格形成のせいで、四郎じしん、さらに生きづらくはなったものの……
書物にかかれた、作者の”フィクションとしてのおもしろさがついた人間についてのウソ”や、”書いた当時信じ込んでいた虚構の理想”や、”小説を小説として仕上げるために、説明を省略してねじまげた人間についての真実の歪曲” だのが、幼い四郎を侵食してしまい、そのせいで、集団に適応できない生きづらさに、さらに拍車をかけてしまってはいるものの。
けれどもそれを恨もうとは思わない。
ほかに誰も、養育者はいなかったのだから。
人類が過去から未来への虚空へと投げ、受け取って走ってくれる次の走者を知らぬまま虚空へと投げたバトンの数々に、一秒でも触れ、なんども繰り返して読んだ、それにしか、すがれなかったものだから。
その四郎の、うれしさを感じるみずみずしい部分が、「本の中の人みたいに何かをできた」と感じた時、ほこらしげに胸があたたかくなる。
そのことを、”なぞってつな”がれても意識不明におちいらず、知覚を保てる奈々瀬だけが、知っている。
そのため奈々瀬は、大好きな高橋に対して自分が話している内容にひどくダメージを受けながらも、四郎とつながったとき形成された一部分でだけ、ほこらしげに胸があたたかかった。
その部分には今、こんな満足があった……
オースン・スコット・カードの書く『エンダー』という名前の男の子が、大人になってから、謎に満ちた不測の死を死んでしまったものの理屈と行動を代弁する。その「死者の代弁者」と同じ役割が、自分にも果たせた。とても言語化できそうにないほど客観できない当事者にかわって、難しい説明を試み、全部は一度には無理だとしても、一部分の「ときあかし」を果たして真実のパーツを提供し得た。
……と。
心の奥底の一部分でだけ、ほこらしげに胸があたたかい。
そして、十六歳のどきどきするような初恋がしたかった自分は、もののみごとに四郎を尊重した自分自身によって踏みにじられている。
奈々瀬は、ふっさりとしたまつげの下から、制御不能の勢いでもりあがってくる涙をどうしようもなく滴り落させながら、手で、目をおおった。
こんな初恋はきらい。こんな初恋はちがう。自分がほしいものと、ぜんぜんちがう。
自分がほしいものを投げ捨てて、自分はそれでしかたがないと思っている。こんなことはいや。
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