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メシ係、返上。か~ら~の~。【物語・先の一打(せんのひとうち)】2
寒い。
一足ごとに、自分がとめどなく怒りを沸きたたせることに、奈々瀬は震えた。
母親にグーで殴られた唇と頬は、寒さのなかでいっそうじんじんする。
狂暴すぎる自分が怖い。怒りに任せて、何かをめちゃくちゃにしてしまいそうな息苦しさ。果てる底のない憎しみ。だから、四郎が怯えておさえつけている衝動が、奈々瀬には他人事でなくよくわかるのだ。
「かなしい」とか「やるせない」とかいう乙女な感情って、役に立つんですか。食べられるんですかそれ。などと、罪もない、どころか大切な感情である「かなしさ」や「やるせなさ」に対して、毒づいて攻撃してしまうかもしれない苦しさ。
方向性を持たない、やりばのない、コントロールのきかない、激しい憎しみと怒り。
行動の燃料になる感情ばかりが、ふつふつ、ぐるぐる、わいてくるのだ。たまったものではない。
ピンポン。
父親の安春が、待ちかねていたように鍵をあけ、焦るようにドアを開け閉めした。「大丈夫か。すぐ、部屋にはいりなさい」
表情があり得ないほどこわばっている。
それは、どういう……?
黙ったまま目で奈々瀬が聞いた瞬間。
「夕飯も作らずに、どこほっつき歩いてた!」安春の後ろから、罵声が飛んできた。びくっとする間もなく、靴をはいたまま奈々瀬は玄関口からリビングの床にずだだっと引っぱり倒された。「あんたなんかただのメシ係なんだから! 交換条件で家に置いてやってる仕事もできないんならでてけ! でてくか! この猫っかぶり!」
後ろからつきとばされた安春は、それでも起き直って、奈々瀬の体を引っぱったままの母親の腕を力づくではずした。「もうよさないか! いい加減にしなさい!」
奈々瀬は、ぶるぶる震えながら靴を一度脱いだ。怒りなのか恐怖なのかわからない。
黙って部屋に入ればそれで。
いやすまない。
この人は部屋へ追いかけてくる。
こういうとき自分がなにに苦しむかというと、怒りが静まるという感覚が持てないから、際限なく目の前の何かに向かっていってしまう自分の狂暴さに苦しむ。
アングリーコントロールのできない状態に、いちど自分をはめてしまったら、永遠にそこから出られない。という感覚。
つまり母親はそういう状態。いやそれ以上。
アングリーコントロールのできない状態に、もう十数年いるのだから。
安春をちらっと見て、奈々瀬は自分の部屋にかけこんだ。
その前に台所のすみっこに、一週間分ずつ自分が数えて封筒に小分けしておいた食費、あと三週間分……を、手を伸ばしてくしゃっと引き抜いて、部屋へと走った。すかさず母親が追いかけてきた。「黙って逃げるな! 何か言え!」
うわっ、と思う間もなく、髪の毛をつかまれた……が、両腕で頭をガードしながらひじを張って母親に自重と勢いでだん! と当たった。四郎に習ったはずの護身と全然違うのだけれど、肩で当たっていく、というのだけはたぶん合っている。自分はすっころばないように立つ。
「メシ係は」
奈々瀬はぶるぶる震えながらも、母親に対して、すずやかな声で言った。
実際には自分では、何を言っているんだか。ぱあっと舞い上がって、むしろパニックを起こしていて、わけがわからなかった。
「メシ係は、返してあげます」
言いおいて、たたたっと自分の部屋へ入った。バタンと戸を閉めた。当座の服をカバンにつめこ(んだつもり)。スマホと財布とさきほどの食費の封筒を入れ(たつもり)。
とにかく自分が何をしているのかが、ぶるぶる震えてしまってわけがわからない。わけがわからないまま、荷物を持って、再び部屋を出る。
「ちょう。姉ちゃん。本気?」と聞く弟のハルとヨシに、「とにかく家にいたら暴力だから。あんたたちも気をつけて。ごめんね。元気でね」とささやく。
弟たちは昔から、母親の感情暴発を引き受けないのは知っている。なぜか自分に向けられるばかりだったから。
台所には、目玉焼きとブロッコリーとレトルトのハンバーグを丼にしたものが、ちょこんと置いてあった。
慣れないメシ係を、ほめてほしかったんですね。などと、母親への客観的なやさしさをふりまいてやる義務も余裕も、奈々瀬にはなかった。
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