「おんなのこを大切にする稽古が間に合っていなくてごめんなさい!」という事実【物語・先の一打(せんのひとうち)】47
四郎は花なしで、手ぶらで帰ってきた。
「花のことをきいてくれて、ありがと」奈々瀬はそんなふうに、四郎に声をかけた。
「稽古してないことを、いきなりやるって、ほぼむりなのに、相手のある世界って生まれてはじめてなのに、それなのに相手に質問するなんて難度の高いことを私にしてみようとしてくれて、ありがと」
「やって(だって)」四郎は崖っぷちにたったような表情で奈々瀬の感謝に対して言葉をかえした。「なんとかして大事にしたりたいのに、どうやって大事にしたったらええのか、わからんとごめんえか」
奈々瀬は、何を言われているのかよくわからない表情になった。
「俺はお母さんがまさかの八つ当たりを、大事な奈々瀬にしやしてあんなにけがさせて、奈々瀬がひどい目にあいつづけんようにこっちへ逃げてきてさ、逃げてきた先では大事にされた、てってことがあったら奈々瀬を安心させたれたやろうに。
おんなのこの大事にしかた俺わっからへんやん、がっかりはせんかもしれんけど、心が満たされるような境遇を作ってやりたても作ってやれしと、ごめんえか。俺の稽古がまにあっとらん、ごめんえか」
四郎はそう言ってから、愕然とした。
「おんなのこを大切にする稽古が間に合っていない」
これが自分の核心部分であったのだ。
”好きな女の子をどのように大切にするかの仕方”より一段手前の、自分をどのように大切にするかの仕方、さえ先祖代々一族郎党わかってない家の子だもの。間に合っているわけがない。
虐待以外のモデルを持ちえない、とはこういうことだった。「どこかに手本となる存在、質問すれば教われる存在はいないか」と質問設定をして探し始めなければ、決してはじまらない。一人でアインシュタインの特殊及び一般相対性理論を仕掛かってしまったような途方に暮れ方で一歩ふみださなければ、けっして始まらないたぐいのそれ。
先の一打(せんのひとうち)の稽古を間に合わせて死ぬのと、おんなのこを大切にする稽古を間に合わせて死ぬのと、どちらかしか間に合わないとしたらどちらを取るのだ、自分!!!
身体情報読みの奈々瀬は、四郎が体の内側で逡巡葛藤しているテーマを読み取ることができた。それで、四郎が黙ってはまっていっているテーマを、かってに自分の口で共有してみた。
「四郎が一子相伝をとるには」奈々瀬は疑問を口にしてみてから、「それって”とる”っていうのかしら、何かの試験に合格するみたいなものなのかしら、武術が全然わからないから、まったくピント外れなことを言ってたらごめんね。えーと、はじめて会った時からずっと、こうでもないああでもないって続けている、『命をとりきる』とか『センノセン』とか『ゴノセン』とか、あれ。あれは、どういうものなの?」
四郎は奈々瀬をぽかんと見つめた。
ほんとうに、みつめたというよりぽかんとした表情になった。
奈々瀬が自分の困りごとを、言語表現という「見える化」にかけてくれたことには、ひとつぽかんとした。
この人はそれができる、というのはわかっていたが、そこはほぼ、四郎が高橋に言語で相談をして、高橋が図解をする、というやりとりで満たされていたので、奈々瀬が参入してくるとは思っていなかったのはたしかだ。
だが、初めて会ったときから、結構なボリュームの難題を奈々瀬が片棒かついで助けてくれていたことも事実だった。
そのうえでそれで。
四郎は次のステップで途方にくれて、それがあってぽかんとしていた。
それをことばにしなければ。けれど。
けれども。
「説明が」
呆然と、せつめいが、と言った。
「むずかしい」
ぼうぜんと、難しい、と言った。
「待って。それで終わり? 私じゃ話し相手にならないってこと?」
「ええ……まあ……その」
「もういちど”なぞってつない”でくれたらどうかしら? 体の動きの前提とか、一子相伝の前提とか、今なにが欠けていたり足りなかったり、致命的にクリアできない条件はなにかとか、そういう話を、私と四郎と高橋さんで、共有できる?」
「いや……あ、……その……」
四郎は口をつぐんだ。
やっとのことで、こう言った。
「言われてみれば、十分な実力があって安心して相談ができる人が、俺のまわりにだれもおらん」
「だれも」
「誰も、おらん」
呆然と、そう繰り返した。
「先の先」とは、無心の先手。相手の出方を待たない。何一つ構えない。
そのままぽんと一打ち。これが一子相伝テストらしいのだ。
”奥の人” たち =峰の先祖返り は、誰一人これに合格せず死んでいる。
なぜなら、未成仏のご先祖さまたちを高濃度圧縮されて体に入れられてしまっているので、気配が消えない。無心の自然体という状態になり得ない。
そのうち、タイムリミット暴走が起こる。近隣の人々を殺戮しまわって、それを止めるべく身内に闇討ちで始末されて終わる。
いままで、そのパターンから脱出した”峰の先祖返り”は、誰もいない。
四郎の周辺の武芸の達者でいえば、まず奥伝の伝人たる父親の徹三郎。次男なので奥伝に触れていない、父の弟の康三郎。この二人とは、稽古を工夫することが難しい。
クラッシャー宮垣こと宮垣耕造。この人は現役時代には力業で押しながら随所に小細工を入れるタイプの格闘で華やかなところを持って行っていたため、「スッと入る静かな先手」については、見てダメ出しをする目は持っているはずだが、実践者としての稽古の工夫の相手をしてやれるかといえば、必ずしもそうでもない。
あとは武芸のしろうとばかりだ。
☆
教え手が出現するまでは、あたりをつけての「一人稽古」しか方法がない。
それで四郎は今、植物の蒸散呼吸に自らをよせるように歩いていた。自らの呼吸を、蒸散呼吸に似せるように、しずやかに歩をすすめている。
結果として、じっさいの草木が朝露をむすぶまでが、どのようにひそやかか、うかがうように、非常にゆっくりした速度になる。
くりかえし、くりかえし、毎日同じことをゆっくりとつづけた結果、いつの日にか
「自らあやつれぬ副交感神経が、ていねいに、地道にくみあがる」
交感神経との一対一対応のバランス、「稽古以前の稽古」……。
ここに、踏み込んでいこうとしている。
次の日は、雨だった。
やはり四郎は、3時34分に目がさめた。
――今日も、
と自分の中のなにかが、つぶやくでもなくつぶやいた。
――今日も死んでいなかった。 今日も、死なずに生きている。
それをふしぎだ、と思った。
いったい、どの細胞が意思をもって、自分を律動させているのだろう。
雨に傘をさしながら、自分を木々の蒸散呼吸にあわせようとすると、雨の勢いに混乱しスピードが速まる自分がいる。
影響力のおおきいもの、音と動きの大きいものに、「持っていかれる」感じと、少し似ている。
うまくいかなさを、幾千と通り越して、
「まわりに引っ張られることなく、草木の呼吸で、ゆっくりと歩く」という状態に至ることがあるのだろう。……もし、やめないで続ければ。
これをやめてしまわずに、ほそぼそとでも続ければ、いつかは。
森羅万象と「まじない」とをあつかう人とをつなぐ、非常にゆっくりとした歩き方を
「禹歩(うほ)という。」
と、夢枕獏が『陰陽師』の中で書いている。
見えない流れを、たぐり巻き取るような歩き方をいう。
伝説上の「夏」という国の「禹王」という王と同じ字であるから、たぶんかかわりがあるのだろう……傘からしたたりおちる水滴で際限なく濡れていく四郎は、そうやって雑念に気を取られていく。
同じ歩くにしても、あの夢枕獏の描く安倍晴明は、自らの体の中に脳の中に、こんなごみのような雑念をあとからあとから沸かせることはないのに違いない。
だけれども、生身の人間は、歩くごとに、呼吸するごとに、今、壁となっている思い悩みの周囲をまわる雑念が、あとからあとから沸いてくる。脳神経ネットワークに微電流と顆粒がとびかうごとにそうなる仕組みだから、雑念はわいてくる。
矢印のばらばらなそれらを、一つの自分が好きで集中できる仕事に集めて向けてやる……ということが、うまくできている人の集団に入って、みようみまねで習い実践しつづけないと、ひとりではとてもとても、難しい。
狐の子と言われながら、安倍清明は、賀茂家の頭領から見込まれた弟子として、瓶水を移すごとくものごとを授けられた……
なにかを内側にかかえていて、人の集団に混じれるとは、うらやましいことだ。
それまで、ひとをうらやむ、ということを自らに思わない四郎だった。禁じていた、というよりは、そもそも望みのない状態に自らを置いてきた四郎だった。
今、篠つく雨に傘おかまいなしにぬらされながら。
「じれったい。」
と自分で思うほど、遅い遅い歩みに、いら立つ自分におどろきながら。
――なんということだ、創作上の人物に対して、自分はうらやましいとおもう !
雑念は、そんなところへと這いずっていく。
ほかの人が持っているもので、自分もほしいもので、いますぐ手に入る予定がたたなくてもほしいものは、餓えてかつえて、
「ほしい、ほしい」とおもう。
かんたんに手のうちにあるものは、
「なんだこんなものか」
とばかりに、つまらぬものに感じて放り投げてしまう。
どうやら父にとって自分とは、
かんたんに手の内にあるので。手の内からのがれようとしないので。
「なんだこんなもの」
という扱いをされていたふしも、なくはない。
ひとのかたちをしているものにとって、
「ものあつかい」
されつづけることほど、かなしくつらく、しんどく、とことん自らを狂わされるものはない。
いまこうして、いったん物理的に、自由になってみてなお、
「父親が、あれもこれも足らぬ息子を痛めつけて矯正するのは、当然のことだ」
という、第三者からみなければ「おかしい」とはわからない、正当化や開き直りの「おかしな理屈」が、被害者側にも、「されてもしかたがない」という無力感を含んだ当然と思われている。
狂った言い分が支配された側に浸透しきってしまっていて、これを「おかしい」と気がついて被害者から”抜く”のが一苦労なのだ。だから、この理屈が脳を支配しているままで次の世代をうっかりつくると、被害者だったものが加害者になる、という仕組みだ。
強いものが弱いものを攻撃して満腹や満足を得るのは、自然界の本能だ。本能にゆがんだ理屈が乗るので、それをするのだ。
無理が発生すると、それは多大なストレスとなる。
多大なストレスは、どこかに捨てどころを必要とする。
多大なストレスの捨てどころとは、「わたし」と「他者」という話法を持たぬべたっとしたくっつきあいに甘えているものにとっては、
「家族システムの、一番弱い部分」
をいじめることで発散する。
ふと四郎は、自分があの父から切り離されてしまったとき、次に弱いものとは
「母ではないのか」
と思いついた。
全身を寒気が襲った。
四郎は思わず立ち止まった。
小学校五年生のとき、自分がわけのわからぬ状態になって、死ぬような目にあわせた相手が、母であった。
自分はわけのわからぬ状態になると、家族システムの、一番弱い部分を、まるで食いちぎるように、標的とする。
母親は自分のせいで、片目と片方の腎臓を失って、顔に大きな傷がついたのだ。
母親の人生をたとえようもなくいびつに曲げたのは、四郎だ。
その日は、楠の場所までたどりつけず、帰途についた。
帰り着いてまだ、時計は5時になっていなかった。
六畳一間の広さでどうにかなる稽古を一通り行う。水を飲む。
ついふらふらと、思いついて奈々瀬の寝顔をのぞきにいく。
奈々瀬が母親から殴打されたあとの顔は、内出血の紫や黄色がかなりおちついてきていた。
治りかけの見た目に、人はいちばんぎょっとする。その日々は、とおりすぎたようだった。
傷ついた組織を修復するためのでこぼこしたようすがかなり平滑になって、もとのとおりのふっくりとつややかな頬と唇がもどってきていた。
むてっぽうなところがある奈々瀬は、仮に万一顔に傷が残ったって、「それがどうしたの!」と言い放ちもするだろう。
けれども、奈々瀬が自分の愛くるしさやみずみずしさ、かわいらしさやうつくしさに心から気づき同意して心底評価する日が、いつか別の日にやってくるかもしれない。その日まで、奈々瀬の顔に、余計な傷がつかなかったのは、よかった。
四郎は、自分自身の母の顔に二度と取り返しのつかない大きな痛手を負わせてしまった身として、心底そう思った。
そして、自分の中にとてもとても大きく、そのことが居座ったままでいることを、もういちど途方に暮れたように感じた。
四郎は、奈々瀬の頬から4センチ離れた空気の輪郭を、そうっと手のひらでなでた。
触れたら、果物にかぶりつくように達しつづけてしまって、無我夢中で行きつく先へ狂い壊して進んでしまい、我に返ってからまた、母親に自分がなにをしたのかわからないのと同様に、取り返しのつかない罪悪感の中で途方にくれるだろう。
容易に予想がつく。
代々のご先祖さまたちが、みな、がまんのできぬたちであった。
人を殺して首を切り、ごぶごぶと吹き出す血を飲む。そういうものを飲むのどになっていないので、たまらぬ焼けつき方をしているのにもおかまいなし。胃の腑がえぐい生臭い血でだぼだぼになってあとで、我に返る。どうしようもない気分の悪さに、少しばかり吐いても、のども腹も血まみれの顔回りも、しでかしたあとのひどい荒れようから回復しない。沈み切った気分の中で冷静になって、死体と自分のふたり、という現実に途方にくれる。忸怩たる思いをかかえ、とにかく後始末をどうにかする。
それのくりかえし。
自分はどのようにして、そのあやまちをかわし、のがれることができるのだろうか。
奈々瀬の寝顔をみた。
ふわふわとした髪が枕に流れている、そこにだけは直接触れても歯止めがきくだろうか。
手を伸ばした。なでようとおもった。
やめた。