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今、家出中。あと10分で帰る、心配しないで。【物語・先の一打(せんのひとうち)】1

顔をグーで殴られた。母親に。

歯で口の内側を切った。もう唇の端と頬が腫れている。
十六歳の女子にとって、それがどういうことかというと。
明日は学校を休むと決まった、ということだ。

衝動的に家を出て、ファストフード店にかけこんだ。斜め向かいの電器店の店頭、五四型の液晶大画面には、CMが映っている。

四人家族が明るく笑っているCM……

「夢は、明るい家を作ることです」
初めて高橋さんに会ったときに、夢を聞かれて、「……笑いませんか?」と、探るように疑うように言ったっけ。

四人家族が明るく笑いつづけているCM……

ぼんやりとそれを見ながら、奈々瀬はポケットの中の小銭を指でさわった。あと百円玉がふたつきり。ファストフード店に入るために、百円でホットコーヒーを買ってしまった。

飲む気になれない。

いつもだったらオレンジジュースなのに。特に寒い時はミルクティーなのに。なぜホットコーヒーを買ったか、奈々瀬は自分の内側をさぐった。

スマホもない。コートも着てきていない。着のみ着のまま。二百円と体ひとつ。それとじんじん熱くてどくどく脈に合わせて痛みが響く、舌でさぐると鉄のような血の味のする頬と唇。

やっちゃった。だから「おはねちゃん」と言われる……四郎とはじめて会った冬の夜もそう。けんかを売るように殺人犯とにらみあって、駅から無計画に電車に乗った。

そうだ、あのとき。
四郎がへろへろの奈々瀬を歩かせてくれたとき、駅前のコーヒーチェーン店で、四郎がホットコーヒーを買ったのだった。あのときから、ホットコーヒーと「しっかりしてる、頼りになる」がくっついている、自分の中で。

あのとき四郎は、半分も飲まずにトレイを返したっけ。
自分の体に合うものを、ちゃんとえらぶひと。

あのとき、「次からは計画的に。」と、まるで消費者金融のご注意みたいなことを思ったのだった。でも今回も同じ行動。むしろ持って出た金額が、前回より悲惨。

そうか。人は変われないんだ。
あんなに、あんなに、あんなに、四郎といれば……高橋さんといれば……次々と新しい自分になっていけたのに。
人は変われないんだ。根っこが変われないんだ。

お母さんと私は同類だ。ばかみたいに同類だ。

どうっと涙がふきだして、奈々瀬はそのことにうろたえた。手のひらでおさえてもどうしようもないほど、涙が頬を伝ってやまなかった。


奈々瀬はコーヒーをちょっとだけ口に含んでみた。大丈夫な方の口元で飲んだが、それはすぐに口の中を傷口まで潤してしまい、熱さとしみる痛さとに余計な苦しみを味わっただけだった。
奈々瀬はコーヒーの紙コップを持って、片づけのコーナーへ行った。コーヒーに(やつあたりするみたいに捨てて、ごめんね)と心の中で謝って、「飲み残し」の片づけ口へと捨てた。

思いついたことがあるのだ。

電器店のノート・タブレットコーナーに歩いて行って、奈々瀬はGmail画面から自分のアカウントとパスワードを入れてみた。難なく設定できた。四郎のメールアドレス宛にテスト送信をしてみる。送れた。

けれども、つづけてメールを打とうとして思いとどまった。

四郎も高橋さんも、メールをすぐには見ない。忙しすぎる人の常として、メールは午前と午後にそれぞれ二十五分の時間をくぎって一括で処理する、というクセをつけているはずだ。
高橋さんが四郎に仕事のイロハを徹底的に教えているから、そうするはず。


奈々瀬はWordを立ち上げた。
書いて整理して、自己完結で消せばいい。

ものすごい速さで文字を打った。中学のときパソコン教室に通わせてもらって、キータッチはそこの先生に「体育会系ですか?」というほど仕込まれた。

――四郎? 今ね、わたし家出中。お母さんがお父さんとすっごいケンカになって、割って入ったの、止めようとしたの、そしたらお母さんにグーで顔なぐられた。鍵も持ってない、コートも着てきてない、お金二百円だけ持ってる。ばかみたい。私ばかみたい。なにやってるんだろ。くやしい。四郎ならこういうとき泣かないのに。私ばかみたい。

ぼろぼろと丸い粒のような涙があふれて落ちた。

そのとき、開いたままだったGmailの画面に


ーーなにかあった?今何かあった感じした。どうした?  嶺生四郎 Shirou Neoi


タイトルと発信者名が出た。本文なし。


何かあった感じした……


それで、それでメールを開いてみてくれたのだ。
奈々瀬はWordファイルから文を貼り付けて、ばかみたいとぐだぐだ書いたところを消して、できごとだけにして「あと十分で帰る、心配しないでね」と付け加えて送った。


すぐに返信が来た。
――心配はせんけど、部屋に戻ったら気持ちきかせて。仕事終わらせて、話聞けるようにしとく。口切れとるやろ、冷やせたら冷やしゃあよ。

――わかったありがと。こういうとき四郎ならどうやって家に帰る? 家族になんて言う?

――今の奈々瀬なら、黙ってピンポンして黙って自分の部屋にあがって大丈夫やん。いややろうけど、今日から毎日黄ばむまで、殴られたとこと口の中の傷、写真とっといて。明日お医者さん行って。

――どういうこと? しなくちゃだめ?

――どこにも出さんとしても、記録、ちゃんと取って。作戦にはデータというか事実が必要。

さっきまでぐだぐだだった奈々瀬の中に、すっくと芯が立った。四郎は三歳で切腹作法を習った、古流の家の子。なんどか ”つないでなぞ” られて、奈々瀬にも言葉にならない思想体系は流れ込んできている。

ーー帰ったら連絡する。ありがと。

それを送って、奈々瀬は全情報をリセット削除した。
寒い夜空のした、額田(ぬかた)奈々瀬は、家への一歩を踏み出した。


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高橋照美
「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!