気もちをごまかして生きる訓練はまずかった!しくった。ーー秋の月、風の夜(56)
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ちら、と高橋の方を見る。高橋がバックミラー越しに奈々瀬を見て、視線を外す。奈々瀬が感じていることがわかったらしい。
全く知らん顔をして話しかける。
「奈々ちゃん、四郎のカジュアルな服買いに行く。先にショッピングモールで朝カフェ。そいで十時開店の洋服屋につきあって。そのあとドライブ」
「わぁ、楽しい! 私も四郎の服選びたい」
「四郎の服は、選ぶの難しいんだよ」高橋が続けて話しかける。「吊るしの背広は、似合わないんだ。鍛えてて細身だから」
「え、じゃあウェストとか胸囲とか首周りじゃないところを、見なきゃいけないってことですか?」
「そう。太ももとか肩幅とか上腕の、ぱっつんぱっつん加減が出ないように、見てあげる。しかも木刀を振るからか、僕と同じく左右差がある」
「すごーい」奈々瀬は四郎を見つめた。「じゃほんとは、背広はオーダーメイドを着なきゃ、似合わないってこと?」
「そのとおり。四郎が嫌じゃなければ、いつか僕の背広仕立ててくれる人のところへ、四郎を連れて行きたいんだよね」
「あ、高橋さんもお仕立てなんですね」
「僕は吊るしも着るけど、左右の腕の太さだの長さだのが違って右背中がつれちゃうからさあ。昔プレゼンみてもらった時”お前すごーく変なシワ出てる”って言われたんで、そのあとがんばって、仕立てを頼んだんだよ」
「そうなんですね。四郎が嫌じゃなければ、って、遠慮しちゃう?」奈々瀬は下から斜めに見上げるように、四郎をいたずらっぽく見る。
高橋はちょっと黙った。それで言った。「採寸、あちこち触られるから」
「いやよね」
「いややん」
言ってしまってから四郎は、高橋と奈々瀬を見た。そういえばこの二人は、自分が嫌なことをイヤだというと、安心して肯定してくれるのだ。「なあ、なんで俺が否定で返すのに、逆切れしやへんの」
「え? 正直な気持ちを言う方が、お互い過ごしやすいって思ってるから」
(うわああ)四郎は生家では許されなかったことができる環境にうろたえた。いちいちイヤ感を感じるのがいやさに、いろいろ感じないように決めてしまっている不正直さを、いったいどうしようと思った。
「いつか、嫌じゃなくなったら行けるのね。ふふ、素敵」奈々瀬は笑って、「……四郎、いろいろおしゃべりしよ」と話しかけた。
「何話してええやら、わからん」
「なんでもいいの。あのね、高校の制服姿もかっこよかったけど、背広姿も好き。紺、似合うのね。それに、道場で着てた袴もかっこよかった」
「そうか」
高橋にも言われたが、自分がかっこいいと言われたときのリアクションが、そっけないらしい。
「俺、かっこええてって言われて、どう返してええやら、わからん」
「……うれしい?」奈々瀬がきいてくれる。
「ほめられたのは、まあ……」
奈々瀬が、自分のことをかっこいいと思っている。つまり非常に好かれているという点に嬉しさを感じる感覚が、四郎にはまだないらしい。
「言われてうれしいことって、人によって全然ジャンルが違うもんね。四郎は、役にたってほめられること以外は、うれしくない?」
「うん」
「いるだけでありがとうって感じも、貢献も、両方が尊くってOKになったらば、かっこいいって言われるのも、うれしくなるかな」
奈々瀬はそう言って、少しだまった。そして、だまったままそっと自分が思い浮かべることで、四郎の中に先祖から引き継がれた“役立たずは死んでしまえ”風の家訓並みに強い憤怒を、抜き去って消した。奥の人からも、ご先祖さまからも。
四郎との間では、自分が思い浮かべるだけで記憶の書き換えの同期がとれていることを、奈々瀬は点検した。昨冬はじめて、「なぞってつな」がった日からの、特殊な状況なのだろうか。
もう少しだけ、様子をみようと奈々瀬は思った。
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マガジン:小説「秋の月、風の夜」
もくろみ・目次・登場人物紹介
「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!