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千と千尋の神隠しのどこが名作なんだ

場内が明転し、皆パラパラと帰る準備をし始める。入場時には気が付かなかったが、平日の昼にも関わらずかなりの客が入っていたようだった。さすが駿である。

「何回観てもおもろいよな」
「やっぱ名作やな」
「最後なんで分かったん?」

観客は200人くらいいたはずだが、こんな感想しか聞こえてこなかった。漏れなく全員が陳腐な感想を吐き連ねていた。こいつらは親の前でも同じ事が言えるのだろうか?母親の前で「名作やったね」と言えるのか?親は泣かせるなよ。たまには実家に顔出せよ。

ぐだぐだと荷物を纏めスクリーンを出る。最終上映だった為か劇場ロビーは閑散としており、売店でスタッフが黙々と片づけをしていた。目に触れないよう柱の裏を歩きエレベーターへ乗り込むと、一緒に観ていた彼女から質問を受けた。

「どうやった?」

さて、難しい局面である。人の感想に"陳腐"などとケチを付けてしまった手前下手な事は言えない。「面白かった」や「名作やな」は論外であるし、わかった風に「演出が良かった」などと恰好を付ける事も許されない。口に出していた訳では無く脳内で揶揄していただけなのだがこれは自分自身との戦争なのだ。ここで敗走してしまっては無残に殺してきてた陳腐な感想たちに顔向けが出来ない。そもそもどうして、金曜日の21時から何十回と観てきた千と千尋の神隠しを、今更映画館で大金を支払って鑑賞しなければならないのか。



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「今、映画館で千と千尋の神隠しやってるらしいで。観に行こや」
「何で見に行かなあかんねん、全シーン再現出来るから俺が演じたるわ」
「予約しといてな」

強引な女だ。と脳内で吐き捨てながらもしぶしぶ予約する。決して尻に敷かれているのではない、敷かせてやっているのだ。その心持ちを捨ててはいけない。亭主関白、豪放磊落、男尊女卑だと心内で叫びながら予約を完了させた。映画館は"ソーシャルディスタンス"との事で一席間隔で座らなければならない。この一見無意味とも思える施策はミソフォニアの彼女と神経質の私にとっては好都合であった。おかげで隣人への騒音問題を気にする事無くポップコーンを食す事が出来るのだ。我々の出会いの場となった当館のポップコーンは決して美味しいとは言えないのだが、それを差し置いてもポップコーンを貪りながらカルピスで流し込む瞬間は筆舌に尽くし難い。我々はこの瞬間の為に高い入場料を支払っているのである。

無事入場券を手に入れる事が出来た彼女と共に、入場ゲートに棒立ちの見知らぬ大後輩に入場券を提示する。三年半働いたこの職場も今や全く知らない場所となってしまった。一新された絨毯、配置の変わったポスター、見知らぬ従業員。同じ場所であるのに全く違う場所で在る様な気がした。

席へ座ると間も無く映画予告が流れ始めた。僕は映画の予告編が狂おしい程好きだ。一時はYouTubeに公開されている映画予告を片っ端から鑑賞していた程の予告編ヲタである。映画館スタッフの頃は予告編イントロクイズでは飽き足らず、映画予告の一部分の音だけを聞いて何の映画か当てる自作バレベルの塔を開催し大いに盛り上がった事を覚えている。予告編マイスターとして新鮮な予告編に舌鼓を打っていると、場内が暗転しスタジオジブリの文字が映った。お手並み拝見とさせて頂こう。



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透き通る様なEDに魅了されたせいかエンドロール中に席を立つものはいなかった。場内が明転し皆パラパラと帰る支度をし始める。入場時には気が付かなかったが、平日の昼にも関わらずかなりの客が入っていたようだった。さすが駿である。陳腐な感想達が飛び交う中で帰る支度をしスクリーンを出ようとすると、清掃スタッフの一人がこちらに駆け寄り彼女に声をかけた。この輩は我々が在籍していた頃からのスタッフで後輩嫌いの僕が唯一懇意にしている女性である。しかしこの後輩、僕の彼女とはほぼ親交がない。ここは僕が先輩風を吹かせてやろうと思っていたのだが、僕に見向きもしないまま会話は弾み、謎に盛り上がっているではないか。「おもしろかったよ!」「私も観たいんですよね~」全くもって内容のない会話のどこに盛り上がる要素があったのか。この疑念に頭を悩ませながら帰路に着いた。

閑散したロビーの中、売店スタッフが黙々と片付けに勤しんでいた。目を凝らすと見知った顔である事がわかったが、会った所で大した会話も出来やしない程度の関係である。彼としても目が合ってしまうと声をかけざるを得ない状況に陥ってしまう為、目を逸らし柱の裏に隠れながらスニーキングの完遂を決意した。これが最大多数の最大幸福かと功利主義の誕生に思いを馳せていると、ふと思う事があった。先ほどの会話も同じだったのではないか?彼女らは薄い会話による苦痛と会話による盛り上がりを引き算した末、陳腐な会話こそが最大幸福であると結論付けたのだろう。他人同士の会話なんてものはこの程度でいいのか。不必要に練ったつまらない小ボケを吐く必要も無ければ、腹を痛める様なワードセンスも必要もない。薄氷の幸福の上に我々は存在していたのだ。今まで何をごちゃごちゃと屁理屈を並べ吐き連ねていたのか。こんな簡単な事にも気が付かないとは。答えは200年前の偉い人が出していたのである。さすが駿だ、完敗である。駿からまた一つ人生を学んだ今の僕なら彼女からの愚問にも笑顔で答えられる。


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