ニューロダイバーシティから「やさしい社会」を構想する(立岩真也(2014)『自閉症連続体の時代』)
脳の多様性
みなさんは、「ニューロダイバーシティ」という言葉はご存じでしょうか。この言葉は知らなくても、「発達障害」という言葉は知っているのではないでしょうか。
発達障害は主にASD(自閉スペクトラム症)、ADHD(注意欠如・多動症)、LD(学習障害)を含意していて、知的障害はないけれども社会では生きにくい特性をいいます。今回はこの中でも、社会性や対人コミュニケーション、想像力の障害であるASDについて考えたいと思います。
考えるヒントを与えてくれたのは、昨年お亡くなりになった社会学者、というより、病や障害と社会の関係についての思想家(と私は理解しています)立岩真也氏の『自閉症連続体の時代』という著書です。
さて、冒頭で上げたニューロダイバーシティについて少し述べたいと思います。この言葉の定義は、これを推進している経済産業省によると以下の通りです。
ニューロダイバーシティ(Neurodiversity、神経多様性)とは、Neuro(脳・神経)とDiversity(多様性)という2つの言葉が組み合わされて生まれた、「脳や神経、それに由来する個人レベルでの様々な特性の違いを多様性と捉えて相互に尊重し、それらの違いを社会の中で活かしていこう」という考え方であり、特に、自閉スペクトラム症、注意欠如・多動症、学習障害といった発達障害において生じる現象を、能力の欠如や優劣ではなく、『人間のゲノムの自然で正常な変異』として捉える概念でもあります。
つまり、前述のような特性を障害ととらえるのではなく、多様性と理解しようという運動です。これは当事者発信で始まった運動だそうです。
勘の良い方はお気づきかもしれませんが、この運動は性的マイノリティの運動をヒントとして始まった経緯があります。昔は日本でも、レズビアンやゲイは「病気」ととらえられ治療の対象とされてきました。それが今では「多様性」と考えられ、「ありのままでよい」とされています。
これは非常に素晴らしい理念であり、私は100%共感します。
しんどいこと(現代社会の中核的業務に関して)
一方で社会学者として考えた時に、どうしてもLGBT運動と同じようにうまくいくとは楽観できない部分があるのです。
それは端的に、コミュニケーションや想像力に問題があると、まるで目隠しをしながら運転をしているように、圧倒的に本人はしんどいだろうということです。
私は性的マイノリティではないので、彼らのしんどさはわかりません。ただ、職場における場面を考えた時に、性的指向が異なるからといってその方の業務遂行能力が左右されることはあまりないように思えます。彼はゲイだから仕事ができない、というのはただの差別で、事実に即しているとは考えづらいです。
一方で、コミュニケーションや想像力に不足がある場合、業務の中核的な部分に深くかかわることになります。私は研究者になる前は官僚でしたが、まさに地獄の日々でした。残業が多いからではなく、人と交渉・協力する場面が多いからです。まさにコミュニケーションや想像力が業務の中核になるのです。
これは官公庁にかかわらず、他の大企業でもそうだと思います。総合職で入社すると、マネジメントや交渉の要職につき、マネージャーとしてのキャリアを歩んでいきます。まさにコミュニケーションや人間関係の調整が業務の中核なのです。
ASDの方たちは、それが苦手ということであって、一体どうしたらええねん、という話になってしまいます。
性的マイノリティに関しては、社会がその存在を認知し、異性愛が「普通」で、同性愛が「異常」であるという認識を改め、差別・偏見が解消され、ひょっとしたら結婚制度も変わるかもしれない、というところまで想像できます。
しかし、例えば私はあいさつをしたり、怒られたりすることが苦手ですが、それなら「あいさつはやめよう」「人を怒るのは禁止」という社会はあまり想像できません。そうなるとよいのですが。
立岩真也は次のように述べます。
pp.248-249
できないことはわかった。それがあなたの意図によるものでないことはわかった。だからそれを責めることはしない。そしてそれはたしかに対応の変化をもたらすことがある。このことでその人を怒っても仕方がないということにはなる。それで理解が得られそれなりの対処法があるなら、言った方がよいといった場面もある。また一時的なことである場合もそうだろう。
〔・・・〕
責任はない、しかしこの仕事は与えない、その人は仕事の場から外されるといったことがある。するとこの社会では暮らすのが難しくなる。
p.180-181
「あなたがわざとしかじかをしたのではないこと(しなかったこと)はわかった(あるいは最初からわかっていた)。けれども、ここで働く人には、それをしてもらったら(あるいはしなかったら)困る、仕事をしてもらっていることにならないのだ。だからわるいけど(いやわるいと思わないが)、辞めてもらいます(あるいは採用することはできません)」。
職場とはそんな場ではないか。
やはり本人ががんばることになる
p.228
その上でもすることがある場合もある。家族に原因がないとしても、また本人の意志によってその「もと」はどうかなることでないとしても、その意味での責任はないとしても、できることはあるとされる。脳機能障害だとなっても、その上での訓練や学習は可能であるとされ、求められる。社会を問題にしてきた人たちは個人や家族に問題・責任があると言うのではなく、まさに社会が問題だと言い、本人や家族が責任を問われることを批判した。しかししばしば、社会的な要因によると言われた上でも、結局何かをさせられるのは本人であったりもする。次にその家族であったりする。「もとの原因」がなんであれ、また必要な金は社会的に支出されるとしても、結局その金で訓練を受けさせられたりするのはその人自身で、そこに連れていくのは家族で会ったりする。できることをしないことを非難されることもある。
障害のために帰責されないとしても、結局は社会に合わせるために努力をしないといけない。普通に近づこうとしないとまともには働けない。十分な所得や尊厳を得ることができない。
発達障害者支援を行っているkaienのカリキュラムをウェブサイトから引用します。障害学・ソーシャルスキルと題されたカリキュラムです。
①コミュニケーション総論 ②あいさつをする/会話を始める ③会話を続ける ④会話を終える ⑤障害理解/発達障害とは? ⑥障害理解/精神障害とは? ⑦ピア・サポート⑧社会資源 ⑨表情訓練/相手の気持ちを読む ⑩感情のコントロール(不安)⑪感情のコントロール(怒り)⑫上手に頼む ⑬上手に断る ⑭相手への気遣い ⑮相手をほめる ⑯アサーション ⑰ストレスについて ⑱自分の特徴を伝える ⑲呼吸法・ストレッチ ⑳運動の大切さ ㉑食事の大切さ ㉒睡眠の大切さ ㉓情報管理の大切さ
社会に適応するための見本市です。もちろん、私はこれらを批判するつもりは1ミリもありません。必要なことです。素晴らしい、尊敬すべき取り組みです。
ただ、やはり本人が頑張らねばならない現状はある、ということを確認しておきたかったのです。
社会の側が、「あいさつを廃止しよう」とか「雑談を廃止しよう」とはならないのです。これがLGBTだと、「異性愛を当然視することは廃止しよう」となるのです。
グラデーションだとしたら
ASDは、自閉症「スペクトラム」というくらいに、定型発達との関係はグラデーションであると言われています。これが現在の心理学や精神医学における通説的見解です。つまり、定型発達の方とASDの方は「量的に」異なるということです。平たく言えば、程度問題だということになります。
誰でも怒られるのは嫌ですし、他者の気持ちを理解するのに苦労することはあります。が、ASD者はそれが極端に苦手だということです。
いやいや、ASDの方は見ている世界が「質的に」異なるのだという方もいます。いまのところ量的なのか質的なのかはよくわかっていません。あるいは量的に極端に異なるとそれは質的に異なるということなのかもしれません。
が、ひとまず量的である、つまりグラデーションであるという理解のもとに話を進めます。
そうすると、ニューロダイバーシティという考え方が説得力を帯びてきます。つまり、障害者手帳を持っているかどうか、診断があるかどうかにかかわりなく、人々の特性に合わせて場を設計していこうよ、ということです。
やさしい社会
もっと平たく言うと、やさしい社会、の実現です。
ASDの診断があるかどうかに関わらず、コミュニケーションや想像が苦手な方には営業の仕事をやってもらうべきではありません。ADHDの診断があるかどうかに関わらず、注意欠如がある方に経理の仕事をやってもらうのは得策ではありません。
しかしここにきてまた、「中核的な業務」という問題にぶち当たります。リーダーシップ、マネジメント、どうしてもこれらの仕事を行う人は所得も社会的地位も高くなります。
それでは、中核的な業務が特性のために苦手な人は低い給料に甘んじなければならないのか(私は怒られるリスクがないならそれでもいいですが)。
こうしてこの問題は迷宮に入っていくのです。
しかし一つ確実に言えること(言いたいこと)は、やさしい社会を作りましょうということです。現在、「仕事」の地位があまりにも高いように思えます。
「仕事だから・・・」という理由をつければ何でも許されるという風潮があります。仕事だから人を傷つけても仕方がないというのです。怖い。
そうではなく、全員が他者を尊重し、あと一歩人にやさしくする、そんな社会が理想なのだと私は思います。
理想主義の空理空論だと言われるかもしれませんが、しかしこのようなことは書き記しておきたいのです。
階段を登らずとも
以上のように考えた時に、現状の日本のメンバーシップ型雇用、ほぼ全員に降りかかる出世競争・人事権はやっぱりしんどすぎるのではないかと思うのです。
階段を上らずとも、自分が得意な仕事を粛々とこなし、そこそこの給料をもらって生活する。それが恥ずかしいことでも何でもない。それがレギュラーワーカー(正社員)の標準形であるとするジョブ型のほうが優しい社会な気はします。
「自分はやれるんだ!」という方は、学位や資格をとったり社内公募に応募したりしてキャリアアップすればよいのだし、そうでない人は得意なことを粛々とやる。それでよいのだと思います。
階段を上らされない自由も必要だと思うのです。
今の日本は、階段を上り続ける or 非正規、というのが主な選択肢になっています。最近は改善の傾向も見られますが。やっぱりこれはしんどいと思うのです。
「日本の成長のために」というプレゼンテーション
経済産業省などは、ニューロダイバーシティを企業の競争力強化のためという形でプレゼンしています。もちろん私もそのこと自体は賛成です。人口減少、労働力不足が控えている状況で、適材適所で人材を配置していく。そのことが、企業、日本の成長につながる。このこと自体は、企業へのプレゼン、社会へのプレゼンとしては有効だと思います。
しかし、疑問点があります。
経済のため云々というよりは、多様な人が多様なありかたで肯定されるのは基本的人権の問題であるということです。何も「あなたの利益になりますよ」というプレゼンをしなくても、端的に人々が特性を踏まえてありのまま生きていくのは基本的な人権であるということです。
端的にその合意を目指すことは理想論でしょうか。「あなたの特性はわかった。ありのままでいていいよ」と肯定されて嫌な人はいないでしょう。人々の特性を踏まえながらそれを尊重し、認め合う、それこそが共生社会なのだと思うのです。
つまり、人にやさしく、です。あえて経済的なプレゼンをするのならば、心理的安全性が確保されれば生産性も向上するはずです。
これこそが私が思い描いている理想像です。ニューロマイノリティの方への配慮が当たり前になり、それに伴って定型発達の方の特性への配慮も促進される。経済的な動機ではなく、人間的な動機で人を大事にする。それこそが社会が目指すべき姿なのではないでしょうか。
以上のようなことを、人文社会系の研究者として発信しておくことは価値のあることだと思うのです。