『夏の思い出が原点を示してくれる』会計人コ→スWeb寄稿に寄せて
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ボツパート、読書感想文の思い出
夏休みは読書のシーズンだ。おれはなぜだかそう思う。なぜそう思うか。記憶の糸を手繰り寄せてみると、もとは学校で出された夏休みの課題図書だったのではないか、と思い当たる。ある夏の日、おれはヒンヤリと気持ちのいいリビングの床を背中に感じながら、おやじのすね毛を横目に、分厚い『海底二万マイル』(たしか福音館古典童話シリーズのハコに入ったいいやつだ)を読みふけり、途轍もなく広大な海の冒険に思いをはせた。
『海底二万マイル』の内容はあんまり覚えていないが、博物図鑑めいた海中の記述に当時ひどく退屈したことをよく覚えている。しかし、その退屈な見知らぬ単語の羅列と思えたものが、いつしか、色鮮やかで豊かな海底の風景となり、おれの主たる『海底二万マイル』の思い出として今も心に残っている。ノーチラス号から外を眺めたかのように。ふしぎなものだ。
学校教育というものは、こうどにシステム化された近代社会に都合のよい模範的労働者を世に供給するため、抜け目なく狡猾な資本家たちが考え出した邪悪な仕組みである、とおれは考えている。何を大げさなと思うかもしれない。しかし、考えてみると話は単純で、普通の学校はわざわざ子どもが変人になるようにものを教えたりはしないし、積極的にルールを破壊し学校組織を転覆せよ、などということを奨励したりはしないわけである。ということはやはり、他人の求めることをそこそここなし、適度におイタをする程度のかわいげもあり、元気にソツなく遊ぶ、そんな模範的青少年の育成を学校は目標にしている、と考えるべきであろう。まあ、それがまともな大人のやることだ。
そんな邪悪(あくまでも)な学校だが、1点ぐらいは評価してやっても良いと思うところがある。それは、読書感想文の宿題を通じて、子どもに読書の楽しみを伝えることもあるということだ。『ハックルベリー・フィンの冒険』、『モモ』、『シャーロック・ホームズの冒険』・・・読書はおれの世界を間違いなく広げてくれた。これといった感想がなくても適当に書いて良いと気付くまで、感想文はひどく苦痛だったが、本の世界は悪くなかった。そうして、闘魂少年に読書習慣を芽生えさせることを通じて、教育は、巨大な社会システムの秩序を維持・運用するのに必要不可欠な模範的労働者の1人を生み出すことに・・・結果的に失敗したのである。(なお、世間を見る限り、わりかししょっちゅう失敗しているような気もしないではない)
夏休みの課題図書。それは、施政者が設けた教育という名の巨大な治安維持プログラムの一角に、良心ある人々が仕込んだバックドアだったのかも知れない。万全を期すなら、やはり課題図書は『華氏451度』一択に限定するなどしておく必要があったのだろう。
それはともかく、今回は「夏休みの課題図書」について思う存分語ってよい企画と聞いている。どうやら、夏は税理士試験・公認会計士試験といったBIGな試験が終わり、受験生につかの間の休息が訪れるシーズンということのようだ。
なにしろ、会計人を目指す者は忙しい。資格試験の戦場で生き残るためには、年に1回ぐらいしかないむやみに難解で忍耐を要する試験でベストなパフォーマンスを発揮すべく、戦略的に自分自身をマネジメントし、数年スパンで生活を厳しく律する必要があっただろう。痛みに耐えてよく頑張った。感動した。夏はもう残りわずかだが、このつかの間の休息は、有効に活用すべきだ。おれはそう思う。
なぜなら、会計人になってからもたいていのやつは普通に忙しいからだ。いざ試験に合格し実務に関わりだすと、多かれ少なかれ、「決算期」なる抵抗し難い闇のルールの支配を受けることになるのが会計人の宿命。今年は気分じゃないから決算を遅らせよう、とかそういうのはまるで通用しない。なんだかんだ言って、世間はルールやスケジュールやしがらみだらけなのだ。試験に受かってしまえば、思うように生きられるかというと、世の中はそんなに甘くない。
「まあでも、仕事があるというのはありがたいことだし、なんなら人に頼りにされている気がするのも悪くないじゃないか。」
そんな風にのんきに考えていると、狡猾な資本家たちはそのすきを見逃さないだろう。気が付くとおまえは、繰り返される日々に忙殺され、雇い主か、顧客か、投資家か、何だかはしらないが、ともかく誰かの都合で決められたスケジュールやタスクにたちまちのうちに侵略されてしまう。
さらにおまえを取り囲むのはいたずらに消費意欲を刺激する魅力的な広告の数々だ。タワマンでのスシパーティー、ナイトプール、見掛け倒しのスイーツ・・・全部ワナだ。おまえはそうやって華美な広告で動物的本能を刺激され続け、自分が欲しいものではなく、人が欲しがるという理由で人が欲しがるものを欲しがるようになり、ただそのコストを賄うためだけに金を稼ぐ自動化された労働者となり果てる。そして、しまいには、自分が何になりたかったのかすら、すっかり忘れてしまうだろう。Victory of capitalism・・・そんなのもよくある話だ。
現実問題、理想を食っては生きていけない。生きぬくために、時には資本家の手先となり心を殺す時期もあるだろう。おれはだいたいいつもそうなっている。というか、今や結構器用にこなせるレベルになった。忸怩たる思いだ。だが忘れてはいけない。おれにもおまえにも、心には資格試験を志すにいたったなんらかの「種火」がある。いつかそれを燃やす日のために、心の種火はメンテナンスしておくべきだ。忘れてはいけないのだ、自分が誰であるかを。
本はそれを助けてくれる。ある日突然、書棚の奥深くにしまわれ存在すら忘れてしまっていた、かつて心をふるわせた本に再び出会い、自分の原点を思い出す。だれだって一回ぐらいはそんなことがあるのだ。だから、つかの間でも時間があるなら、この夏に自分のライフタイムベスト本を探す旅にトライしてみて欲しい。
というわけで、今日は、おれからも何冊か本を紹介したいと思う。
寄稿文に関する余談
闘魂だ。上述のは、何しろボツ原稿なのでそれほど推敲していないが、だいたいこんなもんだろう。「ハリキって膨大な量の布教用テキストを作成」は誇張だ。スマン。
課題図書という話を聞いた瞬間、まずピンと来たのは、忌野清志郎の『ロックで独立する方法』だった。これは前からおれの中では重要な本と位置づけられていて、機会があれば紹介したいと思っていたからだ。序文はこの本のメッセージに繋げようと思って書いていたら、調子が出てきてしまい、なんか公の場に出すような感じのものではなくなってしまったので、カットすることにした。
この本のどこに魅力があるかは寄稿したものにも多少書いているので繰り返さないが、単純なサクセスストーリーではなく、迷いながらも、自分の「納得」を軸に生きていく様が伝わるような作品である点が気に入っている。なお、単行本と文庫版では書き方が違う箇所があるらしいので、後から出た新潮文庫版にしておくのが手堅いだろう。
ちなみに、本番原稿は、どうせ長すぎると言われるだろうから、他を犠牲にして、これ一本を載せて欲しいと交渉するつもりで、ちゃんと読み切れるように書いたつもりだ。結果、3本まとめて載せますと言われてしまったので、逆に少し浮いている気もしないでもない。
次に選んだのは3冊目で、これはまあ、出版社を見ればわかるとおり、中央経済社枠(必須ではないらしい)の本だ。会計人としてあるまじきことではあるが、おれはあまり専門書を読まないほうだし、評判の本は昨今ネットですぐ話題になるし、手持ちのはだいぶ古くなっているし・・・なので、中央経済社枠を選ぶのは結構難しかった。どうせなら自分の興味関心に近い本を選ぼうと思い、書店でわりと頑張って探し出したものだ。
そして、本番原稿の2冊目は、1冊目と3冊目の間に収まりそうな作品を選んだものだ。もちろん大前提として、内容がおススメできるものを選んでいる。全体としてミュージシャンの話からポピュラー音楽研究の話に広がり、消費文化理論でビジネスにつながる、みたいなお話になっているつもりだ。つながって見えないかもしれないが、おれの中ではこれらは全部相互に関係しあっていることだ。
以前何かでも書いたような気がするが、おれは従前から、自分の持ち味をビジネスにうまく活用する方法を考えよう、という方向性のことを主張している。例えば、おれは、言うと大げさだが、元々表象文化論的なものに興味関心があったこともあって、どちらかというと娯楽と考えられがちな「カルチャー」的なものを摂取することは、ビジネスの現場でも意外と良い結果をもたらすのではないか、という漠然としたテーマに、日々試行錯誤しながら取り組んでいる。たぶん、ナントカ道みたいなものとか、スポーツとか、そういうのも何かしらビジネスに応用できるだろう。
これは、すばらしい作品により勇気がわいてくるとか、なんか気分がリフレッシュされる、みたいなスピリチュアルなことについて言っているわけではない(もちろんそれはそれで娯楽の効用ではある)。作品そのものの良し悪しとはまた別の問題として、ある作品がどのように世の中で受け入れられ、評価されるのか、それの理由は何で、どういった人たちが、どういった考えで支持しているのか、といった風に見ていくことで得られる気付きのようなものは、人間が関わる他の活動の場を理解するうえでも役に立つだろう、そんなようなことである。
おれは学者ではないので、メカニズムを詳細に解明して論じたりはできないが、例えば、いずれにせよ人が集まってオモロイムードを醸して構成員が居場所とか意味を見つけたりする活動である、という部分や、もうちょっとマクロに、自分が帰属意識を持つコミュニティが、社会やら既成の文化みたいなものと相互作用しながら、盛り上がったりショボくなったりするムーヴメントである、というような面は、お題目が営利の追求(主として生産を目標とするコミュニティ)であるか、娯楽的な何か(主として消費を目標とするコミュニティ)であるか、つまりお金がどういう方向に流れるか、という違いはあるものの、ザクっと考えると、どこか似ている部分があるように思われる、というような着眼点だ。
さらに、企業は組織全体としては、外部に向けて生産したものをアウトプットする場であるが、外部からの財やサービスを大量に消費する場でもあるし、組織内でいわゆる市場を介さない個人間の生産と消費の交換が無数に行われている場でもある。当然そこには、歴史もカルチャーも存在する。はやりすたりもある。まじめに組織人をやったことがないおれが言うのもなんだが、組織内の消費の在り方に影響する文化的な側面を把握することは、社内でうまくやっていくためにも結構大事なことなんじゃないだろうか、とも思えてくる。そういうことを考えるうえで、カルチャーみたいなものの研究における過去の蓄積を参照することは有益だろう。
そうやって、色々考えた結果、実はぜんぜん関係ないわ、となったとしても、別に論文を書こうというわけではないので、何かしら自分なりの発見があれば良いのだとおれは思っている。つまり、「これとこれとには、つながりを見いだすことも可能かも知れない」、といった視点を常に持ちながら生活すれば、日常から学べることは非常に多く、自然と考え方やものの見方が広がっていくに違いない、という(わりといつもの)話である。それが多少フィクションでもオカルトであろうとも、マイ理論を構築して人生を楽しむ分には問題ないのだ。インターネットで強硬に主張したりしない限り。
さて、ものがどのように売れているのかという議論は、広告・マーケティングみたいな感じで、そこらじゅうで議論されているわりに、「専門家の物語消費」みたいなものは、あまり話が深められていないような気がしている。
ということは、掘り下げてもあまりなにも出て来ないのかも知れないが、個人的には考えてみたいと思っているところだ。会社組織みたいなコミュニティに、文化的他者である専門家が投入された結果生じる相互作用が、コミュニティの価値観やカルチャーにどう影響するのか、みたいなことは、特に小さい会社を相手にする場合には大事なテーマであるように思う。
実際、そういう面も含めて専門家が選択されているように思うところもあるし、我々の実利で言っても、カルチャー面で依頼者にとってポジティブな影響があることが、アップセル(関与を増やして欲しい)、クロスセル(会計だけでなく他のテーマも見て欲しい)等の結果につながるという実例が、経験上結構ある。なので、少し考えてみても良いのではないかなあ、というわけだ。
おれは個人での商売でそういうことを考えているが、それを組織だって提供していける組織を作るにはどうすればいいか、人やコミュニティに良い影響を与えられる人材を育成するにはどうすればいいか、みたいなことまで考え出すと、とても奥深そうである。まあ、受験生には気が早い話だったかもしれないが。
念のため補足しておくと、おれはこんな風に、あまり世間で語られていなさそうな付加価値みたいなものに目を向けてみよう、的なことをよく言ってはいるが、そもそも専門家として必須の機能をちゃんと果たしていない場合の話は特にしていない。その辺は・・・言うまでもない。専門書などを活用するのだ。(PR)
そんなこんなで、結局はなんでもいいから自分が興味を持てて、記憶に残るような体験をなんかしよう、いずれなんかの役に立つから、というごくありふれた結論で寄稿文を締めることにした。
なお、これを書いたのはまだ7月の終盤とかだったので、まだまだ夏だと思っていたら、掲載されるのが夏の盛りを過ぎた、今から大した事できねえよ、みたいなタイミングになってしまったのはうかつだった。これはおれの確認ミスだ。とはいえ、どうせ9月になっても暑いだろう。もうその辺も夏という事でお願いしたいと思う。
以上だ。
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P.S. まさか会計士の論文試験初日に公開されるとはな・・・超がんばれ。
誠にありがたいことに、最近サポートを頂けるケースが稀にあります。メリットは特にないのですが、しいて言えばお返事は返すようにしております。