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衰えても未熟でも-2024.10.18 戸川純 umeda TRADを観て徒然

先週、戸川純の大阪公演があった。

自分はそれほど古い戸川純のファンというわけではない。ニコ生時代を経験したインターネットおじさんのご多分に漏れず、2000年代の後半に、色々面白い楽曲があるという事で認識し、深夜のTSUTAYAかなんかで3枚組の『TOGAWA LEGEND SELF SELECT BEST&RARE 1979-2008』(2008)を購入し、以来何年もカーステのレギュラーとして自分の中で君臨していた、という程度のファンだ。なぜか幼稚園児のコスプレで歌ったりするナゾのライブDVD『玉姫伝』(2006)も持っていて、そのパフォーマンスのすばらしさから、いつかライブに行ってみたいと常々思っていた。

観たいものは観れるうちに観ておかないと。最近はそんなことを強く思う。コロナ禍のようなことがあったのもあるが、何より、アーティストは毎年歳を取るのである。オジーももうワールドツアーはできないようだし、スティーブン・タイラーももうツアーをしない。2014年のストーンズも行けばよかったな・・・気付けばそんな後悔がいっぱいだ。

何しろおれはプータロー会計士受験生であったため、20代前半はカネがなかったし、20代後半は社会性と預貯金をリカバリーするために我を忘れて業務と蓄財に勤しんでいたし、30代になってやっといっぱしになってきたかと思ったら、フリーランスになってそりゃもう色んな事があったし、というようなわけであって、なんしかともかく、20代~30代頃の後悔には事欠かないのである。だからおれは、若いフレンズたちに言いたい。後悔するような若者時代を過ごしておくと40代以降は楽しくなる。もうこの先1日たりとも無駄にすまいというエネルギーがわいてくる。ハイスイ=スタンスが人生をすばらしくするのだ。負け惜しみをするときはこれぐらい勢いがあったほうがいい。おれはこれからも死ぬほど後悔を増やしていこうと思っている。

とにかく、ライブはすごかった。

戸川純(わからない人はググって欲しい、説明するとさらに長くなるから・・・)は1961年生まれで63歳になる。昨今ではもはやそれほど年寄りという年齢でもないが、2006年に交通事故により負傷したらしく、以来しばらく活動休止を余儀なくされ、今でも腰が悪いか何かでずっと立っては歌えない状態にある。そして、声も全盛期(3オクターブ半出ていたらしい)と比べると全然出なくなってしまったようだ。

そういう意味では、ライブパフォーマンスは若いころを基準にすると色々見劣りするものであるとも言える。しかし、実体験のインパクトは、そうした衰えたアーティストとして想像する残念な感じとはまったくことなるもので、もはや魔力みたいなものすら感じさせる驚異的な存在感をステージで見せた。基本的には座って歌うのだが、ここぞ?というところではやおら立ち上がる。その瞬間に生じる会場の熱気、高揚感・・・なんだ?これは!あんな衝撃はなかなか味わえない。

バンドは2019年に活動を再開した要するにヤプーズであり、盤石なリズム隊に支えられた、想像力豊かでありながらもガッチリと嚙み合ったバンドサウンドという感じで、めちゃくちゃ良かった。そして、最近あんまないぐらいの音のデカさだった。良い。爆音、すごくいい。そんなクオリティの高いバンドをバックに、音程も滑舌もあやしいのに得体の知れないオーラで観客を圧倒する戸川純。昨今、演奏のうまいバンド、歌の上手いアーティストは多数いるが、類例を探すことが難しい、なんというかプリミティブなパワーを感じさせるなにかだった。

そんなライブを、戸川純についてまったくよくわかっていない半ば無理やり連行した同行者(業界の後輩ではあるが法人が違うので後輩でもなんでもない)は「生と死を同時に感じさせるパフォーマンスであった」と評した。もはや生命そのものである。ちなみに、面白くなかったらチケット代は要らないと言ってあったが、無事、我が家の家計は守られ、たこやきで乾杯しながら、また面白そうなのがあればライブに行こうと誓い、それぞれ家路についた。平和だ。決しておれの圧のせいではないと信じている。

会場には、往年のファンらしきおじさんもいれば、ロリータファッションやパンクファッションで飾った女性、仕事帰りの人、等々色んな人がいて、幅広い層から引続き支持されているようだった。2021年にTikTokでなぜか『好き好き大好き』がバズったらしく、世界にもファンが増えており、会場には外国人らしき人も見受けられた。

ちなみに、大阪公演の数日前は1000人とかそれぐらい入る会場(*1)で上海公演があり、『蛹化(むし)の女』の途中で声が出なくなったところ、歌詞をまるおぼえしていると思しき現地のファンが歌ってくれた、というひとコマもあったようだ。本人は、自分では『好き好き~』は代表作だとは思っていないとのことだったが、バズって良かったなとは思っているとの弁であった。

いくつになっても、どんな不幸なアクシデントがあっても人生には何が起こるかわからない。それは希望だ。

老いてなお現役は正解なのか

さて、しかしここで少し考えさせられるのは、「老いてなお現役 vs 奇麗な引き際」問題についてだ。「老害」なる言葉もしきりにとびかうインターネット&リアルワールドに暮らす我々おじさん世代にとって、「老害になりたくない」は結構シリアスな問題となっているように感じる昨今である。

色々と変化が激しい世の中なので、5年、10年先のことを考えても仕方がない、ということは日ごろよく言うのだが、そうはいっても、自分が10年経ったら10年分歳を取ることは、コーラを飲んだら(中略)ぐらい確実なのである。老いようが、体を壊そうが、人々を魅了し、人生にインパクトを与えることができる表現者であれば、ステージに立ち続けるのも良いかも知れない。しかし、自分はなんだかんだいって結局はただのビジネスマン、実務家なのである。

おれは幸いなことに組織人ではないので、無意味に君臨し続けるような虞は少ないが、外注業者である以上は、いずれ、「費用対効果」という悪魔の言葉と戦わなければならなくなるだろう。現代風に言えば「コスパ」だ。実を言うと、おれはずっと「コスパ」が好きだった。デフレ育ちで貧乏性だからだ。しかし、おれはいずれそんな自分が愛した「コスパ」の観点から、会計業界の若武者たちとの競争に敗れる運命にある。それだけは間違いない。ビジネス社会は厳しく、優秀な会計人は毎年生まれるのだ。どうしたものか・・・。取り敢えずコスパ社会は否定しよう。絶対そうしよう。

年老いると、少なくとも若さという輝きは必ず失われる。

老醜を晒すぐらいなら、人生、適当なところで静かにフェードアウトしていくのも別に悪くはない。そう思う一方で、自分より上の世代の人がステージに立ち続ける姿に感銘を受けたりするのもまた事実である。そりゃ、ずっと人にポジティブな影響を与える存在でいたいに決まっている。であれば・・・、その時のために今後、自分は何をやっていくべきなのだろうか?

もっとも、40も過ぎれば、かつて机をならべて仕事をしたような仲間がこの世を去っていくという事も、残念ながらちょくちょく起こるようになる。自分がそうならないという保証はない。であれば、やはり今なにをやるか、ということが結局重要なのかもしれない。

表現すべきこと、そのタイミング

前にも書いたことがあるような気がするが、今できることは今しかできない、という事はやはり心に留めておくべきだろうと個人的には思っている。いつか、考えをまとめて世に出したい。もう少し経験を積んだら後進のために発信をしたい。そんなテーマを思いつくこともある。とはいえ、間違ったことをデカい声でいうわけにはいかない。そういう風に思う事もある。今はその時じゃない、もう少し温めよう。

その結果実際どうなるか。迷いは増え、自分の知らない地平はただただ広がる一方だ。少なくとも自分は40代の日々をそう感じながら過ごしている。そして、むしろかつてのようにはできなくなることが徐々に増えていく。

そのまま年を取るとどういうことが起こるだろうか。たぶんこうなるだろう。今更自分が言うようなことはない。世の中も変わった。時代遅れだ。そういう姿が容易に想像できる。

悪くない。決して悪くない。人に何かを伝えることは、別にネットみたいなメディアでやればいいというものではない。自分が普段触れ合う、四畳半の距離感の人々に対して、日ごろから何か心に残るようなことができれば、それはそれで満点、優勝と言っても良いだろう。

ただ、もし、それじゃちょっと物足りない、身近な人に伝わる想いであれば、まったく知らない遠くの人にも届いて不思議じゃない。そんな風に思う可能性があるのであれば、何か行動をしてみたほうがいいのかも知れない。

その結果、人に未熟さや浅慮を笑われたり、バカにされたりすることも増えるだろう。後悔するかもしれない。しかし、結局何をやろうがやるまいが、後悔は増える一方なのである。気にする必要はない。満足したことは忘れ、満足できなかったことがどんどん心に積もっていく。そういうものなのだ。

諦念を経て

戸川純の代表作にフォルクローレに乗せて歌われる『諦念プシガンガ(*2)』という曲がある。戸川は、自分を「一介の肉塊」と表現する「あきらめ」を経由し、一時は死に引っ張られたこともありながら、現在進行形で、歌に、生に執着するその姿を我々に見せている。「諦念」を自分の核と自認しながらも、リハビリに取り組み、表現の道を走り続けている。

どこまで行っても、我々は理由もなく存在する物体の塊に過ぎない。それを理解したうえでも、ひとたび「表現」を始めればそれを続けずにはいられない。一見矛盾とも思えるそうした在り方は、どこか我々の本能を示しているようでもある。それは「諦念」までの掘り下げがあったからこそ至れる境地なのだろうか。

表現に当たるものがなんであるかは人それぞれだ。創作や発信ばかりではなく、仕事の成果で表現できる、伝えられることだってあるだろう。未熟であっても衰えても、我々は結局不完全なままだし、宇宙のスケールからすれば何を成そうが結局取るに足らない存在だ。しかし、恥を晒し、他人に迷惑をかけ、それでも何かを伝えたい、そう思って何かを始めてしまったなら、もはや理屈や正解は及ばない。結局はそういう事なのかも知れない。

※ ちなみに、近いところでは、渋谷プレジャープレジャーでワンマンがあるようです。(プレオーダー~10/22、一般発売11/2~)

jun togawa“X’mas”live 2024
2024/12/5(木)
開演:19:00~ (開場 18:15~)
SHIBUYA PLEASURE PLEASURE (東京都)



*1 会場は、VAS SHANGHAI。ラブリーサマーちゃん、羊文学、等々(例が偏っているのは認める)日本人アーティストが結構公演を行っているハコのようである。

*2 プシガンガは円座して飲み歌うの意

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電子の海に潜む闘魂
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