空虚な身体と刻み込まれるジェンダー
ジュディス・バトラーという衝撃
1990年に発行されたジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』。この本は、ジェンダーに関する様々な議論を読んできた。その中でも有名なのが、「セックスも社会的構築物である」ということだ。
私達の中では心身二元論が前提としてある場合が多い。精神と身体。精神を上位に置き、下位としての身体とみなし、そこでは医学的な性をそのまま受け止める傾向にある。バトラーはこのような心身二元論を「デカルト的心身二元論」としている。
しかし、問題となるのは医学という学問だ。第一次性徴に見られるペニスを持つか、ヴァギナを持つかによって「男」「女」が分けられる。この強制的な判別が問題となる。biologyという言語によって「男」「女」が分けられ、それがセックスとなり私達の社会的生活につきまとってくる。
「ジェンダーは社会的構築物である」というのも有名な話だ。そうなってくると医学という言語学的に構築された学問によって、制定されたセックスはどうなるのか。セックスも言語によって制定されたものであるから、本質的なものであるとは言えない。バトラーはこのような論法により、「セックスも社会的構築物の一つである」という話が導かれるのである。(単純化しすぎる話ではあるが)
刻み込まれるジェンダー
何もこれは新しい話ではない。ボーヴォワールは『第二の性』のなかで、なぜ歴史の初めから男女という性別に序列がつけられ、女は男より劣った性“第二の性”とされているのか。男たちは法と慣習を通じて、歴史的にどう女の地位を決定したのかを疑問視し、「女は女に生まれるのではなく、女になるのだ」という言葉を残している。しかし、この言葉にバトラーはひっかかる。「女になるのだ」という完了形、そしてそこで全てが終わってしまうような(女になる)という表現が問題なのだ。
ここでバトラーが参照するのはフランスの思想家ミッシェル・フーコーである、フーコーは身体が本質的にあるのではなく、歴史の中で生々しく生成されていく過程を描いている。それを利用し、バトラーは前ー言説的な身体があるのではなく、社会的に構築されていく身体、つまりは言説によってジェンダーが生成されていくさまを描いていく。
本質的な「女」があるのではない。「男」という外部的・権力的から疎外された形で「女」になり、かつ「主体」が「女」という言説を受け入れ、構築して振る舞うとき「女」というジェンダーは生成されていく。
ジェンダー化される個々の身体(bodies)
身体とは、ひとつの「身体」があるわけではなく、ジェンダー化される個々の身体(bodies)であり、強制的異性愛体制の中でセックスの言語的物質性を医学、そして社会常識から枠づけられたものである。身体は、それぞれの身体の内面に性別を付与する(性自認をする)ために重要な前提であることには変わらない。しかし、その身体の内部と外部を隔てる輪郭を定め、身体的特徴に性的な意味づけをし、強制的異性愛という二元的な枠組みの中で理解ができるように「身体」を自然に配置するものがジェンダーである。
そして、ここでの内部とは、「自然」としてあるのではなく、行為をなす「身体」に投影されているとバトラーは言う。内部が自然としてあるのならば、身体の歴史はこれまで変わらないものであっただろう。ギリシャ時代には男の血は赤く、女の血は青いとされてきた。しかし、フーコーが描くように身体は歴史によって書き換えられてきたものである。
「ジェンダーの非自然化」は決して言説遊びではない。二元論的なジェンダーとそのカップリングである異性愛を「自然」とみなす社会的通念が、同性愛者やトランスジェンダーのあり方を「病理/異常」とみなし、疎外してきたことと同義である。このように身体は自然なものではなく言説によって、さらに言えば権力による政治的な場として扱われてきたものなのである。身体は自然のような自由なものではなく、言説のマトリクスに絡め取られているものである。そして、行為が身体に投影されることでジェンダーは刻一刻と変化をしている。
一時的に構成されるアイデンティティ
ジェンダーは様々な行為が発生する原点となる安定したアイデンティティではない。そして、安定した主体の場でもない。むしろそれは、様々な行為の流れのなかで一時的に構成されるアイデンティティであり、行為をあるかたちで反復することによって作り出されるアイデンティティなのである。このようにジェンダーとは、様々な身振り、動き、パフォーマンスによって、ひとつのジェンダーを持つ自己という幻想を政治的・日常的に構成する方法の一つである理解できる。
そこでバトラーが注目するのは人類学者のヴィクター・ターナーの「社会的パフォーマンス」という概念である。ターナーは儀礼的社会劇の研究で、社会的な行為はパフォーマンスの反復を必要とすると述べている。この反復性は、社会のなかで確立された意味のひとまとまりを行為として再演することである。それはまた同時に社会のなかで確立された意味のひとまとまりを追体験することでもある。それは日常的で儀礼化された形で社会的に確立された意味を正当化することに繋がる。
社会的パフォーマンスとしてのジェンダー
バトラーはこの論を応用して、ジェンダーを「社会的パフォーマンス」と規定する。
ちょうど脚本が様々なやり方で上演されるように、また芝居には脚本と解釈の両方が必要なのと同じように、ジェンダーをもつ身体は、文化的に制限を加えられた身体空間のなかで自分の役割を演じ、すでに存在している規範の枠内で解釈を行う
ジェンダーの行為/パフォーマンスは文化的規範に規定され、それを反復しされる。しかし、そこにはつねに規範を裏切ったり、攪乱したり、あるいはその規範の実現に失敗してしまう可能性が存在する。身体は自由なのではなく、常に制限と裏切りの中に存在している。
ただし、ジェンダーが本質や社会的・文化的構築物だとしても、それは自己にとってセックスやジェンダーがリアルなもの(本物・現実)として否定されるものではない。これらは自己を定義する根本的な要素として経験されうる中で、アイデンティティの形成に必要なものである。重要なことは、私たちは自分が選択したのではない語彙の中で自分を形作る上で、時にはそのような語彙を拒否し、もしくは積極的に新しい語彙を練り上げなければならないということだ。
結論としては生まれながらに医学的に「固定配線された」セックスの感覚を生き抜くのか、それともより流動的なジェンダーの感覚を生き抜く自由を望むのか。
それらは選択された自由を持つ権利である。この選択の自由を頭から否定しないことが重要であると考える。