アポロドロス
初めて聴いたこの感情を思わず文字に残したくなる、そのような気にさせる曲は多くはない。
そして2024年7月3日0時、文字に残さずにはいられない曲がリリースされた。まさに電撃リリース。つい7時間前まで、誰もこの曲の存在を知らなかった。その曲は
Mrs. GREEN APPLEのアポロドロス
テレビ朝日系列のパリオリンピックの応援ソングだ。
この曲には実は秘密がある。
この曲、10年前の大森元貴と、現在の大森元貴、この2人による合作なのだ。
彼はよく、昔作った曲をリリースしたりする。それって全くもって普通のことではなくて。
だって皆もそうだろうけど、10年前の創作物なんて、今の自分からすると絶対に恥ずかしい。10年前の日記とか手紙、読み返せますか?という話。
でも彼はそれをやる。
彼はよく、「将来の自分が聴いても胸を張れるような曲を作っている」と言ってる。だからこそ昔の曲もリリースできる。すごいなぁと。
以下、聴いた時に感じたことを綴ります。1時間半、4000字。サクッと綴りました。感情と解釈が交互に出てきて読みにくいですが何卒。
ぜひ、アポロドロスを再生しながらお読みください。読んでくださった方は♡押していただけると恥ずかしさが減ります。
あっ、あまり期待せずに読んで欲しいです...
何も整理せず書き始めて書き殴りに近いので...
1番
イントロ。静かなピアノの音色から始まる。
水の音。そういえばナハトムジークの冒頭でも水の音が使われてたな、と思う。
そして、そのメロディに込められた静かな闘志は、
突如として爆発する。
爆発的なエネルギーの高鳴りと共に頭サビが始まる。
辿り着く果てまで苦しみは尽きぬけど
冒頭にこの言葉から始まるのはほんとに大森元貴だな、と。
彼の音楽は寄り添いだ。応援ソングだからといって単純に選手を鼓舞するものではない。
辿り着く果て(金メダルを獲る、などの目標)までの苦しみ(日々の練習や重圧、葛藤)は尽きない。まず彼はそこにフォーカスする。
アスリートは、すごく輝いてる。活躍すればするほどキラキラ見える。でも、その裏には様々な苦悩がある。彼はその輝きではなく、まず初めにその苦悩を歌いたいと思う人間なのだ。自分が選手ならここで泣きます。
そして広げた腕で待っている今、のあとのベースがカッコよすぎる。カッコよすぎる。カッコよすぎる。←大事なことなので3回言いました。
記録をつけては体温。
今、パリオリンピックの舞台で輝く選手たちは、ほぼ確実にコロナ禍を経験しているだろう。練習も満足にできず、体温を記録する日々。満足に外にも出られず、日差しを浴びたいと感じる日々。
ここでもやはり彼は、アスリートの裏側を歌う。忘れてないぞ、あなた達が大変なコロナ禍を乗り越えてきてこの舞台に立っていること。その苦労、ちゃんと分かっているぞ、と。自分が選手ならここでも泣きます。
ここは、オリンピックを目指していたものの、出場出来なかった人たちに向けて歌われているのだと思う。
夢の舞台に立てなかった人たちも、夢の舞台に立てる選手たちと、同じだけの努力をしてきたはずだ。それでも、敵わない相手がいる。叶わない夢がある。
卑屈になることもあるだろう。悔しくて涙を流すこともあるだろう。
でも、大森は歌う。そんな自分を「嫌いにならないで」
オリンピックに出るような、唯一無二の人になりたかった。けどなれなかった。でも認めたくないよな。だって頑張ってきたんだから。
オリンピックを目指すアーティストには周囲からのプレッシャーもかかる。家族、恋人、友達、コーチ、仲間。みんなから期待される。オリンピックに出られたら褒められるだろう。喜ばれるだろう。それだけで十分頑張る理由になる。
でも、オリンピック出場は叶わなかった。
あぁ、褒められたかったな。周りの期待を裏切っちゃったな...
でも、この曲を聴いたアスリートは思うだろう。あぁ、分かってくれるんだ、この気持ち、と。
大森元貴はそこまで視点が回る人物なのだ、ということに驚きを隠せ得ないが、そうなのだから仕方ない。誰も置いていかない音楽を創る。誇らしい。あと褒められたかったァの歌い方も良い。
冒頭の、辿り着く果てという言葉に戻ってくる。
オリンピック選手と同様、日本の音楽界のトップを走る彼らにだからこそ書ける歌詞だな、と思った。
Mrs. GREEN APPLEにとってのゴールは、解散と過去に言っていたが、要は彼らにとってはドームライブも、レコ大も、紅白も通過点でしかなく、レコ大を取ったからといって、何かが終わる訳では無い。
辿り着く果てまで、苦しみは尽きない。けど、逆に辿り着く果て(=目標)があるから頑張れる。それでも時として不安になる。本当に辿り着く果ては存在するのか?金メダルを獲ることは即ちゴールなのか、?
そもそもゴールなんてあるかも分からない。
でも、感性に任せて、feelingに任せてしまえばいいんだよ、と。思うままに思う方向に進めばそれが正解だから。回り道でも私が歩けば正解だから。
不安を掛ける(掛け算)のではなく、割る(割り算)
不安は常に付きまとうけど、そんなものは割ってしまえ‼️
エネルギーがほとばしるサビだ!!
この表現、これまで見てきた日本文学の表現の中で1番好き。美しい。噛み締めるほど良さを味わえる。
スポーツというのは否応なく勝者と敗者が存在する。傷のない勝者も素敵だ。だけども、負けた人も、ここまで頑張ってきたんだから、何も下を向く必要は無い。2位だろうが3位だろうが、最下位だろうが胸を張っていいんだと。
綺麗な花もいいけど、傷をも誇れる花になろう。
これは10代の頃の大森が綴った歌詞だ。
簡潔かつ明快、誰しもが何かしらの傷をもつ世の中で、この言葉が刺さらない人はいないのではないだろうか。
そしてこのジャケット
一見、すごく綺麗で色とりどりの花束だ。しかしよく見ると、左に枯れた花があったり、花弁が散っていたり...。完全に綺麗な花束とは言いきれない。それでも綺麗なんだから、「傷をも誇れる花になろう」という言葉を具現化してくれている。その証拠に、この花は傷を負っている。だから包帯が巻かれている。
2番
ここの畳みかけるメロディ、すごく焦燥感がある。時間が無い中で、結果が求められる。試合はすぐそこなのに結果がついてこない、その焦りが音として表現されている。良い人なんかじゃないんだって!思わず逃げ出したくなるような。
努力は報われる、と言う。頑張っていれば神様は観ているから。
ほんとに??
頑張っても頑張っても結果がついてこない時もある。神様早く。報いはまだ?何してんだよ。思わず焦ってしまう。
ほんとうに神様は観ているのかな。不安になる。
将来、この苦しみや焦燥が全てが捨象されて、綺麗な物語になってしまうのか。
報われない日々の方が多いのに、綺麗な部分だけがクローズアップされてしまうのか。
努力をして、結果を出すというごく普通の物語の範疇に収まってしまうのか。
この血と汗はただ、
ただの後には何かが省略されている。なんだろう?
恐らくアスリートにとって、血と汗は決してただ綺麗なものではない。
物語として、結果を出すまでの過程で流れる血や汗は努力の象徴として語られる。美化されてしまう。
でも実際にはただただ苦しい。様々な苦悩が伴っている辛さの結晶なのに、ただの努力の結晶として語られてしまうのか。こんなに苦しいのに?
血とアァセがァァ
↑
はぁ、、なんだこの歌い方は、、、。その後のフェイクも声にならない声、苦悩が表現されている。
ここで鳴っているベース音、心臓の鼓動だ。試合前、集中し、自分の鼓動しか聞こえない。緊張し、鼓動が早くなる。それをベースで表現しているように感じる。
本当に我々は遠回りをする生き物。
いい表現だなぁ。そもそも近道なんて存在するのかも怪しいけど、結果を出すためには遠回りをしないといけない。
ミセスの活動自体も、ここまで来るのに本当に遠回りしたもんね。ほんとうに。23歳で活動休止した。編成も変わった。そのまま活動していれば、、なんて考えても仕方ないのに考えてしまう。
遠回りしすぎて、嫌気がさす。消えてしまいたくもなる。灰になって空を舞う方が楽じゃん、そう思ってしまう。
でも、やっぱり辿り着くところはある。アスリートに先立って、ミセスがそれを身をもって示した。遠回りしたけどここまで来たんだ。神様は試練を与えた。たくさん。あれもこれも。途中で折れそうになる。でも全部試されていたんだ。神は乗り越えられない試練は与えない。
遠回りに気づいた日。何かに負けた日。失敗した日。自分自身に負けた日。もう立ち上がれないと思った夜。
それでも朝はやってくる。これから頑張れるのか、もう頑張れないのか。悩んだ朝。
でも、また立ち上がったんだきっと。立ち上がったから今があるんだ。いつかあの朝の思いもなくなるんだろうか。
やはり彼はアスリートの輝きではなく、その裏で経験してきた苦しみを歌っている。そもそもミセス×スポーツといえば、僕のこと。
高校サッカーの応援ソングとして執筆されたその曲は、応援ソングの概念を覆すようなバラード。努力に表裏一体で伴う感情を歌い、頬濡らす夜を歌った。あの時と同じ。
はーー最後にドンッと背中を押してくれる。
負けても誇ればいいんだ。だから、たくさんの人に支えられて、愛を浴びて辿り着いた今日というこの舞台で、今こそ生まれてきた意味を刻むんだ!
アウトロはまるでファンファーレのような、祝福のはなむけだ。
最後のピアノの音が優しく、切なく響く。
この音が心の中でどう響くかは、人や状況によってまるで異なるだろうな。
P.S
さらにラフに書きなぐりました。