コロンブス歌詞解釈
素晴らしい曲がそれに値しない評価を受けるのは非常に癪。少しでも世間のイメージアップを図るためにツイート量増やしたりもした。
でもコロンブスという曲自体には深く触れてないし、𝕏上では考察を見たくない人たちも沢山いるだろうから、ここでコロンブスの歌詞を今1度読んでみようと思う。いつもよりラフな文体で書いてみようと思います。1万字近いので覚悟して読んでください。
考察というか、解釈というか、解説というか。
2024年6月リリースのMrs. GREEN APPLEのコロンブス。
「コロンブスの卵」をテーマにした曲だ。非常にポップなサウンドに、韻を踏む歌詞が乗せられ、爽やかで聴きやすい曲になっている。
コロンブスの卵について詳しく知らない方は1つ前のnoteを参照していただきたい。
音楽を聴ける環境にある方はコロンブスを再生しながら読んでいただけると、より分かりやすいかと思います。
1番
まず冒頭から度肝を抜かれた
軽快なサウンドに騙されて思わずスルーしてしまいそうになるが、歌詞に注目すると非常に不穏な一節から始まるのだ。
「眠り」=「死」を表すことは確かだろう。言い換えると、
「僕が死ぬ日まで」
実は似たような始まり方をする曲がもう1つある。それは彼らのバンドの姿勢を示した曲、「Attitude」だ。
コロンブスもAttitudeも、冒頭はこの一節がポツンと独立して存在する。
ここでの我儘は、大森元貴の音楽活動のことを指す。(過去のインタビューやブログでの発言より)
そして、彼はミセスを諦めることは自分の人生を諦めることと等しいと語っている。(2022年 音楽と人 12月号)
つまり、
「我儘が終わるまで」
=「音楽活動をやめるまで」
=「死ぬまで」
=「眠りにつく日まで」という等式が成り立つ。
故に、Attitudeとコロンブスの冒頭の独立したこの節は本質的に同じことを言っていることが分かる。
果たして眠りにつく日まで、何なのか。答え合わせは最後に取っておこう。
突如500万年前というワードが出てきて困惑してしまう。ここでの500万年前とは類人猿と人類が分岐したタイミングを指している。
類人猿と人類の分岐を「気まぐれな寄り道」という軽やかな表現を使うあたり、作詞家としての才に溢れているな〜とつくづく思う。
まるで、一緒に散歩中、
「あ、ちょっとコンビニ寄ってくるね!」
「あ、うんわかった。じゃあね!」
そうして別々の道を歩き出したかのような気軽さ。
なーんだ、偉大な進化も所詮その程度の気まぐれなのか、と考えれば少し肩の荷も降りる気がする。
人類と類人猿が分岐したその日、人類が気まぐれでコンビニに寄り道した日(?)、何を言えなかったのだろうか。大森元貴自身もその内容までは分からないらしい。(有料コンテンツでの発言のため詳細は言えない)
でも彼も分かっていないので自由に解釈ができる。何が言えなかったんだろうな。
あの日「も」言えてないということは、今「も」言えてないんだろうな。
ここでは「何を言えなかったのか」が大事なのではなくて、「500万年前の人類」と「今の私」が「何かを言えなかった」ことを共通項としてリンクする、そのことを表現したかったのではないだろうか。
これは2020年にリリースされた「スターダム」の一節だが、この歌詞も「かつての偉人」と「今の私」は「同じ不安をもつ」ことを共通項として説得力をもたせている。
ここでは、過去の偉人も貴方と同じ不安を抱えていたから大丈夫だよ、ということを伝えている。
そう考えると、「500万年前の人類」と「今の私」は一見全く無関係だが、実は同じことを考えていた。つまり、500万年という長い時を超えて1人の猿人と1人の人間が繋がることや、進化途中であろうが同じことに悩む同じ人類としての微笑ましさ、悩みは昔から変わらず常に付きまとうものだ、ということを表現したかったのではないだろうか。
うぅ...海原を流れる炭酸の創造...どういうことだ...
コロンブスがコーラとのタイアップソングであるから、「炭酸」というワードを用いてるのであろう。炭酸=泡、と解釈するならば、
「海原を流れる炭酸の創造」=「海でできた泡」
という解釈が可能だ。
私はこの歌詞を見た時に
「あぁ、なんか方丈記みたいだな」
と感じた。
要は、「無常観」を表している。水中の水の泡はいつまでも存在することなく、すぐに消えてしまう。そしてすぐに新しい泡が誕生する。
偉大な大発明も、見つけた細胞も、所詮泡のようなものなのだと。
やっとの思いで成し遂げた発明も、やっとの思いで見つけた細胞も、当人(もしくは当時)にとっては唯一無二で偉大なことかもしれない。でも歴史的な長い時間でみると、そういった発明や発見はあちこちで発生し、どれも特別なことではない。
そうした少し悲観的なニュアンスをこの歌詞に感じ取った。
直感的な感覚では、生命の誕生が海底の炭酸(硫化水素等)を起源として誕生したことを指していると思った。(ただ、海原を流れるとは繋がらない)
そこ(熱水噴出孔)は非常に過酷な環境(温度は数百℃、硫化水素などの猛毒物質の宝庫)のため、歴代の発明や発見もそんな過酷な環境下で創造されたものだという意味もあるかもしれない。
追記:英語の翻訳では海原に流れる炭酸の創造は以下のように書かれていた。
ん〜(笑)といったところ。しっくりくる解釈あれば教えてください🫶
1サビ
ここからはサビだ
この構図、ものすごく五言絶句じゃないですか?
五言絶句とは、中国の漢詩に使われた表現技法↓
五言絶句の特徴は、4句からなり、文末で韻が踏まれていること(押韻)。この詩だと、光(こう)、霜(そう)、鄉(きょう)でouの音で韻が踏まれている。
コロンブスのサビも4行に渡って、
〜ような(yoona)
〜ゴールが(gooruga)
〜常が(jooga)
〜ような(yoona)
と、ooaの音で韻が踏まれている。
そして思い出して欲しいのはこの曲がコーラとのタイアップソングだということ。コーラ(koora)もまた、ooaの韻の持ち主だ。まさに鬼才の業。
だが韻だけではなく、歌詞にも注目していこう
いつか僕が眠りにつく日の様な
不安だけど確かなゴールが
意外と好きな日常が
渇いたココロに注がれる様な
変換すると、
いつか僕が死ぬ日のような
不安だけど確実に存在する終着地が
案外悪くない日常が
心に潤いをもたらしてくれる
といったところだろうか。
死ぬ日のようなゴールなので、
死とは全員に、平等に、いつか必ず訪れるもの。
受験勉強や、仕事、日頃の取り組み。それらはどういう結果になるか分からず時に不安になる。だけれどもそれらにはいつか必ずたどり着くゴールがある。
「意外と好きな日常」とは、普段はあまり楽しくない日常でも、なんだかんだ案外悪くはないかもねといったニュアンスが「意外と」というところに含まれていると思う。
「渇いたココロに注がれる」とは、コーラから連想された言葉使いだ。
構造は
「死のように確実に存在するゴール」+「案外悪くない日常」
→心に潤いを与える
人がいつか死ぬことは当然なように、先が見えないことにもいつか必ずゴールがやってくる。そこにいつか必ず辿り着けると分かっているから、不安な日々もなんとかやりすごせる。
また、つまらない日常も悪くないと些細な幸せを感じることで、生きる活力がわいてくる
こういったニュアンスだろう。そういった「些細な幸せ」を感じるために、
する必要があるのだと。
普段は見逃すようなちょっとした奇跡に注目してみると、つまらない日常も案外楽しめるよ、と教えてくれているのだ。
「ちょっとした奇跡」ってどんなんだろうな。
学校で気になっている人と席が隣になった!
行きたいライブの日仕事が休みだった!
アラームかけ忘れたけど時間通りに目が覚めた!
朝早くから仕事の日に朝日が綺麗だった!
道端にたんぽぽが咲いていた!
なんだっていいよね。ちょっとした奇跡にクローズアップしていけるような人になりたいな。
与えられているのに気付いていない愛が必ずある。それらに気付いたところで、愛されているという事実は何も変わらず意味はない。だけれどもその愛を全て甘受したい。
そういったニュアンスだと思う。
皆さんはあるだろうか。与えられているのに気づいていない愛。
家族から、友達から、恋人から...
愛されていないように思っても案外愛されているという事実に大森元貴は気付いたんだと思う、それもこの一年くらいで。
2022年の夏にこう歌った彼が、
2023年の夏にはこう歌っている。
これは、新たに誰かに愛されたのではなく、今まで気付いていなかった愛に気付いたが故の心境の変化だと思う。
でも、だからこそというべきか、まだまだ自分が気付いてない愛があるのだと。
そしてそれらを飲み干せるようになりたい、つまりそれらの愛に気付いて甘受したい、そうした彼の思いが溢れた歌詞だ。
2番
2番。やっと2番。ちなみに今3600字を超えている。ひぃ。ちゃんと読んでくれる人なんているのかな、と不安になりながら書いています。ここまで読んでくださった貴方に感謝します。まだまだ続きます。ペースアップします。
僕は大人になる途中で「ごめんね」が言えなかったんだ、でも大人になった今は言えるようになったんだ。
そういう歌詞だが、伝えたいことはそれだけではない。
僕「は」言えなかった、なのだ。
僕「が」でもなく、僕「も」ではなく、僕「は」
僕は言えなかった。
君は?
僕は言えなかった、とあくまで自分に限定することであえて聞き手の状況に触れていない。
聞き手が「ごめんね」を言えるなら、僕は言えなかったけど、君は言えて偉い、ということになるし、
聞き手も「ごめんね」が言えなかったのなら、僕と同じだね、と。
暗に聞き手に対して寄り添った歌詞なのだ。彼の優しさが溢れているなぁと思う。
文明の進化はそのままの意味だとして、「歴代の大逆転」は何を指すんだろう。
弱小国が強国に勝利したような大逆転もあれば
天動説→地動説のようなコペルニクス的転回の大逆転もある。
(コロンブスのように英雄から侵略者へ転落したような大逆転を指すとする考察が多かったけど前後の文脈に繋がらないからちょっと納得がいかない)
「地底の果て」は地獄のことなんだろうか。
ギリシャ神話で極悪人の行き着く先、というツイートを見たけどうーん。彼がそこまで考えて書いたとは考えにくい。
「地底の果て」から「聞こえる」コロンブスの「高揚」
最初聞いたときの直感的なイメージとして、地震のように地下から何かが轟いてくるような感覚を覚えた。「高揚」は明らかに肯定的な意味だ。
地震が「ゴゴゴ」と音を立てて襲ってくるように、コロンブスが大陸を見つけた時に感じたような「高揚感」が大地の底から湧き上がってくる
うまく言語化出来てるか分からないけど、この感覚分かりますかね...急にやる気になる瞬間とか、モチベーションが上がる瞬間ってそういう込み上げるような力を感じる。
どこからか力や勇気が湧いてくるような感覚に近いかもしれない。
コロンブスが前人未到の地へと旅立とうとしたあの日に感じた「高揚感」
何かを初めてやろうとするとき、そこには不安もつきまとう。でもその不安は「偉大な人にも寄り添ったもの」で、その不安を乗り越える「高揚感」を感じようと。
文明の進化も、歴代の大逆転も、そこのパイオニアはこの高揚感に支えられて偉業を成し遂げたんだろうなぁ😌
「いつか君が乗り越える寂しさ」という歌詞はフェーズ1の大森元貴には書けなかっただろうな〜。貴方は寂しさの渦中にいましたからね。
でも貴方は何らかの寂しさを乗り越えたんですね。うんうん。
いつか君が乗り越える寂しさの「様な」平等な朝日と夜空。
つまり、その寂しさは当然「平等」なんだよ、とここも暗に優しく語りかけてくれている。
朝日と夜空の様な 平等な寂しさ、ではなくて、
寂しさの様な 平等な朝日と夜空、にすることで、
朝日と夜空は平等であるが、それ以上にごく当然のものとして「寂しさ」も平等なんだよ、と。
言いたいこと伝わってるかな、、。
リンゴのように赤い夕焼け
というと、リンゴが赤い事が大前提として存在している。
それと同じで、この歌詞には「いつか乗り越える寂しさ」が平等で等しく訪れるものであることが大前提となっている。
だから貴方が今、もしくはこれから感じるであろう寂しさは貴方だけが抱えているものではなくて、みんなが直面するものなんだよ。貴方だけじゃないんだよ。
そういうメッセージが込められている。
2019年に出されたこの曲のアンサーとして書いているようにも思える。
「君」=「当時の自分」と考えたら素敵だな。
ふふふ
あと「意外と好きな日常が」と「胃が痛くなる日常」で韻を踏んでるの天才すぎません??
素敵だけども胃が痛くなるような辛いことももある日常が、心をピシッと正してくれるんですね。
「気づけていない愛」と「傷つけてしまう哀」で韻踏んでるのさすがに天才すぎません??
傷つけてしまうのは自分自身なのかな。
哀しみに何を教わってるんだろう。
Dearでも「哀しみを食らう日もあるけど」って歌詞が使われてる。
悲しみ・哀しみってそもそもなんなんだろうって思う。いつか記事にしようと思ってるけど自分は生まれてこの方悲しいという気持ちになったことがない。悲しいってナンデスカ??
だからここはよく分からないですごめんなさい。
ツイートもしたけど、ほんとにここの歌詞の表現・言語化能力が半端じゃない。
人はみな違う。才能も、身体も、なにもかも。だからこそ他人と比較して劣等感を抱くこともある。それはまるで呪いのように自分を苦しめる。
どうして私はあの子のようにできないんだろう。どうして私だけこうなんだろう。
そう思い卑屈になる。だけども、その違いがあるからこそ私が私でいれるのである。
だからこそ、卑屈になっている自分を嫌いになることはできない。
私自身、生まれ持った呪いに苦しめられることもあるが、この呪いが自分の個性の1つを形成しているんだと考えるとやはり憎めない。
この歌詞はコロンブスのことを指していると思われる。
「愛すべき名誉の負傷」とは、「新大陸の発見」という名誉が、侵略者としての一側面によって傷つけられること。
「盛大に祝われる微妙」は2通りの解釈があって、
①コロンブスは偶然新大陸を発見したにすぎないのに、それが盛大に祝われること
②侵略者であるのに、コロンブスの日(コロンブスの到達を祝う祝日)が祝われること。
ここでは矛盾を歌っている。
名誉が傷つけられている。
しかし、その名誉が盛大に祝われている。
彼はその矛盾を大切だと言っている。つまり、
コロンブスの英雄としての側面と侵略者としての側面。どちらかだけでなく、その両側面にフォーカスすることが大切なんだと。
ここから転調して最後のサビへと繋がる
ここは1番のサビとほぼ同じだ。
ちょっとした遊びにクローズアップすれば心が通じ合うということが言いたいのだろうか。
生まれ持った呪いのために卑屈になってしまうこともある。胃が痛くなるような日常が待っている。でも、ちょっとした奇跡や、美学、遊び、そうした普段なら見逃してしまいそうなところを見逃さず些細な幸せを感じることができれば、少しは生きるのが楽になる。
彼の綴る歌詞にはその想いが通底して感じ取れる。ちょっぴりの愛や幸せに気付き、愛でることが彼が寂しさの中生きていくための美学なのであろう。
コロンブスに戻る。
この歌詞を見た時、大森のソロ作品、Frenchの
この一節を思い出した。
言ってることが非常に似通っているように感じるのは私だけだろうか。
君と過ごす時間を余すことなく全て大事にしたい。
彼のそういう思いが溢れている歌詞だと思う。
Cメロ
トゥルルットゥ〜ということで遂に最後のCメロ。
「君を知りたい」と言っている以上、「君」のことはよく知らないのだろう。つまり未知の領域。
コロンブスもかつて未知の海域に船を出した。
だから、未だ知らない「君」を知ろうとすることは探検のようだ、と。
そして、君を知ろうとすることは、君しか知らない優しい孤独にそっと触れるようだと。
優しい孤独にそっと触れる、いい表現だなぁ。
人それぞれ、孤独に感じる瞬間があるんだと思う。でもその気持ちは孤独である以上誰とも共有されることはなく、結果的に1人で孤独を抱え込み、誰も知り得ない孤独になる。
でも、誰かが貴方のことを知ろうとしたとき、その孤独の扉をそっと叩くことになる。
だから、人を知ろうとすることはその人の孤独を知ろうとすることなのだと。
そしてそれは、オーロラの様な絶景にたどり着いた気分なんだそう。
オーロラの特徴は2つ
① 美しい
② 滅多に見れない
孤独に触れ、君を知ろうとすることは、コロンブスがかつてそうであったように、未知の領域に足を踏み入れるようなもの。
でも君を知ることで、オーロラのように、未だ見たことの無い美しい絶景(=君の本音や孤独)がそこに広がっているのだと。
はぁ、なんて美しい一節なんだろうか。
コロンブスというタイトルらしく、航海を人生に例えている。彼が我逢人から奏で続けてきた、出会いや別れをここでも歌っている。
彼の人生は出会いや別れの繰り返しなんだろう。そしてそれは間違いなく彼だけではなくみんなそうなはず。
潤んだ瞳、つまり泣いている。悲しい別れがあったのか、悔しい別れがあったのか。何にせよ、ただ泣いているだけでは意味が無い。その涙に意味を持たせるためにその経験から「何か」を得なければならない。その「何か」を宝箱に例えているのだ。宝箱というキーワードもコロンブスというタイトルに因んでいる。
冒頭の1行を振り返る。
「いつか僕が眠りにつく日まで」
眠りにつく日までなんなのか。おそらくその後の歌詞全てにかかっているのだろう。
眠りにつく日まで奇跡にクローズアップして、哀に教わって、宝箱を探す。
宝箱、探しに行こうかな。
まとめ
コロンブスという楽曲、軽快なリズムで爽やかで、サラッと聴けてしまう曲だと思います。でも歌詞はやっぱりどこか寂しさや哀しさをまとっていて、あぁ、ミセスだなって。
彼らは変わったとか変わってないとか色々言われてるけど、それもやはりコロンブスと同じで二者択一的なものではなく、変わった側面もあるけど、変わっていない側面もある。
サウンドや書く歌詞も変わった。変わったというか深化した。だけども、曲に通底するものは変わっていないと思う。ライラックやコロンブスはその事を改めて再確認させてくれました。
大森元貴はProgressiveリリース時のインタビューで、「歌詞に意味があるから、音楽はただ楽しんでもらえばいいと思ってます。」と語ってたけど、全くぶれていないなと。それはダンスホールにしろ、ケセラセラにしろ、ライラックにしろ、そしてこのコロンブスにしろ。
コロンブスなんて特に韻が踏まれてて、ポップの極みで、消費されやすい曲だと思う。でも歌詞を見て聴くのと見ないで聴くのは全く違う。これが世間に歪んだイメージで届くなんて嫌だなぁ。
だから今回は歌詞にフォーカスしてみた。ここまで読んでくれてる人なんて相当なもの好きしかいないと思いますが(笑)
MVについて全く触れていないのは歌詞を解釈する上で特に必要じゃなかったから。腐っても歴史に関しては高水準の教育を受けてきています。コロンブスというタイトルを聞いた時、MVを見た時、正直どこかムズムズするものはありました。だからこそMVが公開されて比較的早い時間にその旨のツイートをしました。(削除済)
歴史や宗教、国というものは日本に住んでいると少し遠い話に感じてしまいます。日本は島国でそれなりに独立した歴史を歩んできたし、他の国に支配されたことがありません。
宗教に関しても、「神」という概念はますます希薄になっています。
島国で国境が明確な我々には「国」というのは目に見えて線引きができます。
でもこれは日本がイレギュラーなのであって、それぞれの国にはそれぞれ歩んできた歴史体験があります。神が絶対的な存在である国、もはや国という帰属すら曖昧な地域もあります。
歴史や宗教、信条といったものは時によってすごくセンシティブな話題で、バックグラウンドをよく知らずに簡単に踏み込めるものではありません。
人文系の学問が益々軽んじられる世の中になりつつありますが、グローバルなこの時代、言語だけでなく歴史や宗教について学ぶことは、その概念が希薄な日本人にとっては殊更大事なことだと思います。
ここまで読んでくださりありがとうございます。たった数分の歌詞で1万字のことを語れる曲ってすごいなぁと思いつつ、たった数分の曲に対してこれだけ語れる自分もすごいなぁと思います。(笑)
でも正直どの曲に対してもこれくらいのことを考えてて、その1つ1つを漏らさず全て書き残そうと思うとこれだけ文字数が必要になってしまう。
3日間に分けて書きました。1万字、過去1長いnoteです。果たして何時間かかったのか。何度コロンブスを聴き直したか。ほんとに有料化したいくらいだよ...
ここまで読んでくれた人、ほぼ居ないはず。
でもここまで読んでくれた人、何人か顔や名前が浮かびます。
やっぱり書いたからには読んでくれないと寂しいのでね!
把握してないだけでもの好きの方が他にもいるかも知れません。
♡押してくれたり、Twitterで一言お声掛けいただけると励みになりますm(_ _)m
P.S
想定以上に読んでくれる人が多くて嬉しい、ほんとに。コロンブス以降、アポロドロスとfamilieがリリースされた8月半ばに読み返してます。コロンブスはライブ映像が出て、物凄い勢いで再生されてる。友達がずっとコロンブスを口ずさんだりもしてる。少しでもこのnoteが誰かの役に、ミセスの役に立てたならこれ以上幸いなことはありません。
この曲の産みの親である大森元貴はリリース直前、コロンブスを聴くと泣きそうになると語っていました。その意味が今ではよく分かります。ポップだから、あまりにポップだから、返って歌詞に、その不意に見せる儚さに胸がキュッと締め付けられるのです。
結びにかえてライブ映像を。