見出し画像

牛腸さんのこと

牛腸茂雄全集を手に入れた。

最初に彼の写真に出会ったのは何時のことだったか、もう定かでは無いが、 写真雑誌で紹介されていたのだろう。 知らない作家だったが、 一目見て彼の写真が好きになった。
コンポラ写真の代表的作家と云う位置づけで、SELF AND OTHERS と題された彼の代表作(写真集)からいくつかの写真が紹介されていた。 現代のポートレイトを見慣れた者としては、ある意味写真家らしくないとも言えそうな、35mm 横位置の素朴な人物写真が並んでいた。
今から数十年前に写真家の前に立ち、 その姿を収められた人々の穏やかで、時に生き生きとしたまなざしを眺めていると、 何かすーっと心が穏やかになっていくのを感じた事を覚えている。
そしてその中に一枚、 何か肩をすくめたような、他の人たちとは明らかに違った雰囲気でカメラの前にたたずんでいた人が、 作家牛腸茂雄であった。
後にこの姿は彼が幼少児に罹患した脊椎カリエスの影響であったと知ることになるが、 当時は何か写真家の自意識が取らせたポーズの様にもに思え、それがこの一枚の印象を際立たせていた。

私と他者。
写真集のエピグラフに引用されているように、 社会的動物である人間においては、他者の存在、影響は絶大であり、そこから受ける影響は計り知れない。 時には他者が私の世界全部を覆い尽くすこともあるだろう。

私と他者。
私とそれ以外の世界全部。
そのように考えるとこのタイトルはとても野心的なものにも思える。
例えばあのアウグスト・ザンダーが目指した、人間写真集の様な。 もちろん作家にそのような網羅的、 計画的な意図は無く、ザンダーのゲルマン的、百科事典的な力仕事とはベクトルの全く違う、 小さく詩的な小宇宙ではあるが。
実際の写真集においては、 赤子の写真から始まり、 様々な他者のポートレイトが続いていく。 最初に受けた印象の通り、 時に素朴な家族の集合写真としか思えないようなカットも混じる中、中盤には作家両親のポートレイトもある。 作家の命を生み出した、一番近い他者。 そしてありきたりな
表現になってしまうが、 子供たち、 その生き生きとした表情はとても魅力的だ。
現実を写す以上、写真にはその時代の空気というのか雰囲気が逃れようも無く写ってしまう。 もちろん私は世代が大きく違うので、この時代の経験は無いのだが、 ここにどうしようもなく強い郷愁を感じる。 語義とは矛盾するのだが、 会ったこともない人々のまなざしと情景に強いノスタルジーを感じて、それがその後ずっと心の中に残り続けていくことになる。

好きな作家であり、 写真集であれば、手元に置いておきたいと考えるのが自然であるが、 牛腸さん(こう呼びかけたくなるのです)の写真とは何故かそのような関係にはならなかった。
代表作のSELF AND OTHERS であれば、 今まででも比較的容易に手に入るのであるが。
時に雑誌で紹介されていたり、そしてテレビのドキュメンタリーを見たり、牛腸さんとは時々姿をお見かけする関係が続いていた。
ふとした瞬間にあのセルフポートレイトの暗い表情を思い出したり、あの双子は今何歳になったのだろうとか、あの白いベッドがある明るい部屋はまだ存在しているのだろうか、など。そのようなことを思いつつ、実際の作品集は手元にはないという変則的な関係が続いていた。 つまり、牛腸さんの写真達は私にとって一種の故郷であり、 “遠くにありて思うもの"と言ったような関係だったと形容すれば良いのかもしれない。

それでは何故今回、全集の購入に至ったのか。

それは私が、何か大きな病気をしたとか、事故に遭ったと言うことではないが、何時しか人生の折り返し地点を過ぎつつあるそのように思い始めた、そう、死を意識し始めた事がその遠因だろうと思う。
最初に見た作家のポートレイトの違和感は、 今ならその理由が、そこに“死” が写っているから、と理解できる。 前述したように作家は幼少期に脊椎カリエスに罹患し、医者からは長くは生きられないということも伝えられていたという。 骨の成長不全もあり、身長は伸びず、体力的には同世代に遠く及ばない。撮影に当たってはその体力のなさがハンディキャップとなっていたことも想像に難くない。 同世代の写真家に比して、思い通りにならない身体は、その歯がゆさの中に、ぼんやりとしたものであるとしても常に死を意識させていたのではないか?
誰しも何時死ぬかは分からぬ身と言え、それを思考の外に遠ざけておくことの出来る人生 (時期) と、そうでは無い人生の違いは確実にある。
自分も何時しか後者の時期に入ったのだという思いが、 “故郷” への帰還を後押ししたのではないかと思うのだ。


SELF AND OTHERSの写真構成は、他者から始まり、最期に自身のポートレイトがおかれている。最初の一枚が赤子であることから、生から始まり最期に死 (=作者) で閉じられる構成と読むことも容易である。 ある意味素朴とも言える自/他、 生/死の二重構造となっている。
但しその単なる提示で写真集は終わっておらず、 その (対立的な) 構成を止揚する形で続く一枚がある。
霧の中に子供たちが走り去ってゆく状況を捉えた一枚がこの写真集の最期を飾っている。他はすべはっきり顔が映し出されているポートレイトである中、 この一枚だけが顔が写っておらず子供たちの小さな後ろ姿となっている。 子供たちが霧の彼方(もちろん彼岸でしょう)に走り去っていく、ある種幻想的にも思えるこのイメージは、他者と自己、 生と死という、対立的な概念が混じり合い、融合していく、そんな意味を否応なく感じさせる象徴的な一枚になっている。
日常生活では自他の葛藤があり、 生死は明らかに分断されている。 そのようなままならぬ日々を過ごす中、対立概念 (としか思えない) 二つが融合する状況は、ある種非現実的な憧憬であろう。もちろん作者がその融合する境地を達成していたとは思われない。しかしそれは来るべき未来において実現すべき理想境というより、過去において既に達成されていた状況(*)であり、 そこから今は遠く離れてしまった、と云う淋しさの認識である様に思うのだ。
そう、 二度とは戻れない故郷を思うような・・・。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

全集の中には初見の作品もあった。
日々、 SELF AND OTHERS、 幼少の頃、 以外に絵画作品も手がけていたと知ってって驚くことになる。
一見してロールシャッハテストの画像を思わせる ”扉を開けると SPIRITUAL TRAVELS"
インク滴を水面に垂らし、その変化の偶然性を味わう、”水の記憶”

この2作品は、いずれも自意識のくびきを離れた、偶然性を有した絵画作品であり、 もちろん写真では無いが、その恣意性と偶然性の狭間に依って立つ作品は、 どこかスナップ写真にも相通ずるものがあるのではないかと感じた。
扉を開けると、の解説を心理学者(ロールシャッハ / 精神診断学の翻訳者でもある)が書いていたり、SELF AND OTHERSには、あのレインの経験の政治学からの引用(正確には、経験の政治学の中に引用されているゴッフマンのことば)があるなど、牛腸さんは精神医学に関心を抱いていたのではないかと思わされ興味深かった。
巻末の年表に、精神医学へ興味を持ったのは、大辻清司の影響があったのではないかとの記載があり、この辺りは今後刊行予定の資料編でより詳しいことが分かるのかもしれない。

牛腸茂全集。
ずっしりとしたハードカバーの本ではあるが、この小さな空間に作家の生前発表したすべての写真が納められていると思うと、何か残酷な感じもする。 淡いセージ色というのか矩形の表紙は、眺めていると何か遺骨を納める骨壺の敷布のようにも思えてくる。そして別印刷で貼り付けられているのは、SELF AND OTHERSの項でも触れた、あの幽明界を思わせる一枚である。

この中に牛腸茂雄という写真家の小宇宙が確かに存在している。

その事実(本)を前にすると自然と居住まいを正される思いがする。



全集を企画、 出版した赤々舎の仕事に敬意を。



http://www.akaaka.com/publishing/bk-shigeogocho.html





ここまで読んでくださった方(いるのかな?)へお礼を込めて
赤々舎の本は同社のHPから購入することがおすすめです。
詳細は言いませんが、きっと予想外のいいことがあるはず。




(*) 自他 生死が融合されていた状況というのは、何もスピリチュアルを持ち出さなくても、過去において実現されていたと断言できるように思える。 まるで詩的ではないが、 ビックバン (正確にはインフレーション) 以前の瞬間においては、空間、 時間は未生であり、当然自他の区別もない。
この複雑な世界も時間をたどっていけばすべてが一点 (この表現は矛盾だが) に収束していると宇宙物理学が教えてくれているのなら、自他、 生死の融合は始まりの時点ですでに達成されていた (今は失われた夢である)ことは自明であるように思えるのだ。

いいなと思ったら応援しよう!