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よりマシな候補者

候補者選び

 7月11日の参議院議員選挙で、あなたは投票しただろうか。


 かつて、「酒の席で話してはいけない」こととして、「野球、宗教、政治」などと言われていた。酔った勢いで、激しい論争が始まってしまうからだろう。
 野球には熱烈なファンが多く、チームや選手への好き嫌いも激しい。
 宗教ではそれぞれに教義があり、時に他の宗教の教義を否定するものもある。
 ただし政治の場合は、少し異なる。それぞれの政党や政治理念に違いがあり、他の政党の理念と反することがある点では同じだ。しかし、日本では「お上のやること」には従うものだという習慣が根強くある。

 平安時代にしろ、鎌倉時代にしろ、あるいは江戸時代にしろ、政治というのは特権階級が行うもので、民衆はそれに従うという構図があった。
 こうしたことは他の国の他の時代でもあることだが、政府のやることに異議を唱えない姿勢がこれほど貫かれている国は珍しいのではないだろうか。

 しかし、常に唯々諾々と従っていたわけではない。
 鎌倉時代にも江戸時代にも、民衆が、現代でいうところの政府高官の不正などに対して抗議の訴状を出したり、時には暴動に出ることもあった。
 しかし、現代日本ではその意識は薄いのではなかろうか。
 たとえば、デモ行進を暴力主義の表れと揶揄する人がいる。あるいは、政府に逆らう反乱集団だとか、敵国のスパイだと批難する人もいる。
 しかしデモ(抗議)は、暴力ではない。
 民主主義国家において、デモは権利として認められている。
 なぜなら、あらゆる人は、いかなる人種であろうと、いかなる思想を持とうと自由で平等であり、暴力などの反社会的あるいは反道徳的行為を行うことがなければ、一方的に弾圧することは許されていないからだ。
 そして、デモは自分の意思を表現することであり、これも権利として認められているという発想となる。


 ところが、あらかじめ話し合い(いわゆる根回し)をし、どんな問題でもあからじめ結論ありきで進め、抗議することは集団行動を乱す行為をみなしてしまう日本においては、デモ行進などは許されざる愚行のように扱われてしまう。
 だから国会答弁でも、たとえばイギリスのような激しい論争にはならない。
 あらかじめ、質問者は何を聞くかを提示し、答える側もそれを知り、結論ありきの答弁に終始する。
 そのため、質問者からの質問の一部や情報のパネル提示などが、あらかじめ断られることもある。


 これはあくまで笑い話だが、ある情報(たとえば、諸外国におけるインフラ整備について、など)について知りたいと、議員が国会図書館に持ちかけ、情報を得る。
 その時、館員は、その議員に都合の良い情報を与えるという。
 好例について知りたいのだなと感じたら、うまくいった国の例を出す。
 逆に悪例について知りたいのだなと感じたら、うまくいかなかった国の例を出すといった具合だ。
 どこまで本当なのか分からないが。

国民が選ぶ

 何でも話し合いで決め、余計な争いごとは避ける。政治は特権階級が行うものとする日本の考えは、異常と言わざるを得ない。


 民主主義の精神に反しているからだ。

 根回しを先に行い、何でも話し合いで決めるということは、それに従わないものをあらかじめ排除するということであり、反対意見など最初から無かったかのように振舞われる。
 あるいは、特権階級ばかりが政治を行うのは、すべての国民の生活や生命に関わる重大な仕事であるにも関わらず、低い身分の者はその職から排除されるということでもある。
 もちろん、政治家は特権階級の出身ばかりではない。
 第九十九代内閣総理大臣を務めた菅義偉氏は、いちご農家の出身で、上京後は段ボール工場で働いていた人である。
 また田中角栄も農家の出身で、政治家になる前は建築会社を仕切っていた。
 しかしながら、二世どころか三世、四世議員が日本では多い。
 国会議員の3割以上を占めているという。
 そうでなくとも、それらの人たちの秘書を務めたとか、娘婿であるなどの、縁故の者も多い。大臣、さらに内閣総理大臣となると、この比率が上がる。
 世襲でなければ、出世も難しいのだ。

 

 民主主義社会において、あらゆる人が自由で平等であると述べた。
 これは職業選択の自由も当てはまる。身分社会では、その身分に応じた仕事にしか就けなかった。
 かつて江戸時代には、士農工商という身分制度があったとされるが、現代ではほぼ否定されている。しかし、就くことの出来ない職業というものはあった。農民がいきなり武士にはなれないし、あるいは賎業とされた役者などに武士の子が就くことは無かった。


 だが、職業選択の自由の元では、農家の子が公認会計士になってもいいし、学者の子がタクシードライバーになってもいいし、プロ野球選手の子が俳優になっても、一向に構わない。
 そして政治家にもなってもいい。 
 ただし、政治家という職業に就くには、決定的な条件の違いがある。
 選挙である。
 国民の生命や生活に関わる以上、誰がなっても良いということはない。
 医者や弁護士などには専門的な知識が必要であるから、国家資格として最低限の知識が求められる。
 民主主義制度において主権者は国民であり、政治家は国民が行うものである。ここに専制主義との違いがある。
 しかし国民全員が参加できるはずもないから、代表者を選んで、行わせる。そのための選挙である。

 このように考えた時、選挙権を放棄するとはどういう意味を持つのか、お分かりだろうか。
 代表者を選ぶ権利を捨てたことになる。
 そのため、代表者が何をしても、文句は言えないということになりかねない。
 専制主義であれば、為政者は国民が選んだ者でない以上、いくらでも文句を言ってもいいし、何なら追い出しても構わない。
 意外に思われるかも知れないが、日本では、例えば江戸時代の将軍が誰になろうと、一般国民は口出しが出来ない。将軍を代えることが出来るのは、将軍自身か将軍家か、あるいは重臣に限られる。しかし、世界中を見回すと、たとえ専制主義であっても君主や政治家が国を追われるのは珍しいことではない。
 フランス革命で国王夫婦が処刑されたが、国民が為政者を処刑した初めてのことだと勘違いしている人もいるが、それ以前から頻繁に起きている。
 フランス革命は王制が民主制に変わるきっかけであって、国民が為政者に反発しても一向に構わないのである。

 民主主義では、代表者はあくまでも国民の代表者であり、国民の望まないことを行った場合にはむしろ交替させなければならない。
 だが投票を行わなかった人というのは、代表者と何ら関わりがない。
 ちなみに、A選挙区でア氏とイ氏が争い、ア氏が選ばれた場合においても、イ氏やその支持者はア氏に対して、文句を言っても良い。
 なぜなら、選ばれた瞬間にア氏はア氏とその支持者の代表者というだけではなく、A選挙区の代表者になったからだ。だからイ氏の支持者であっても、ア氏が不適切であると思えば文句を付けても良い。
 しかし投票を放棄した人はA選挙区の人であっても、代表者を選ぶ権利を放棄した以上、文句を付けることが出来ないというのは、そういうことである。

 おそらくここまで言う人は珍しいだろうし、異論もあるだろうが、少なくとも私はそう思っている。

よりベターな選択肢

 さて、私たちは代表者を選び、議員として送り込む。
 問題になるのは、適格者がいない時だ。
 たとえば、A党のア氏、B党のイ氏、C党のウ氏が候補者に挙がったとする。ここで、A党支持者であればA党に入れる。
 しかし、特に支持している党を持たない、いわゆる「無党派層」は、どこの党に入れようか、あるいは誰に入れようか、迷うところだ。


 ここで、ベスト(最上)を選ぼうとする人がいる。
 たとえば、
 A党=消費税増税☝、議員定数を増加☝
 B党=消費税減税☟、議員定数を増加☝
 C党=消費税減税☟、議員定数を減少☟
 とする。
 この時、「消費税の増税は仕方ないが、議員定数は減らすべき」と思う人、あるいは「消費税は減税すべき。議員定数は増やすべき。でも、B党は嫌だ」という人には、該当がなくなる。
 だから誰にも投票しない、というのは浅慮だ。

 先にも述べた通り、選挙権を放棄した人に文句を言う権利はない。消費税は減税すべきと思っていたのに、逆に増税されて文句を言うなら、なぜ減税を提案していた人を推さなかったのか。
 もちろん、民主主義国家で国民主権国家の国民であれば、法律に対して文句を言う権利はある。
 だが、増税派のA党のア氏が当選したからといって「ここの選挙区はおかしい」とは言いきれない。この選挙区の人たちから最も多くの票を得たのがア氏だからだ。
 おかしいと思ったら、ア氏やその支持者に質問すれば良い。なぜ、増税が良いのか、と。


 先に、特権階級の専制国家でも国民が反発することがあると述べたが、民主主義国家では国民による異議申し立ては権利として認められている。
 だからもし、あなたがア氏がふさわしくないと思えばイ氏やウ氏を推せばよい。それでもダメなら、あなた自身が立候補すればよい。その権利も認められているのだから。

 ベター(より良い)を選ぶというのも、ここにある。

 A党は支持できないが、ア氏は信頼できそうだ、ということもある。
 実例を挙げれば、自民党の山田太郎議員がこれに該当する。
 2019年の参議院選挙で、彼はいわゆる「オタク」層の支持を受けて54万票以上もの得票を得て当選した。では、その人たちはみな自民党支持者かといえば、そうではない。むしろ、表現規制を行おうとしていた自民党に反発していた人も多かったことが分かっている。では、表現の自由を求めるような「オタク」層が何故支持したのか。
 山田氏が、表現規制を行うとする自民党に乗り込み、中からそれを覆そうとしたことが、周知されたからだ。敵として対立するのではなく、仲間になって内部改革を行うとしたのであり、それが本心であると受け止められた人たちによって押し上げられたのである。
 実際、山田氏は信頼できるから支持者するが、自民党は支持できないという人は今でも存在している。
 
 B党の政策は支持できるが、感情的に支持できないという場合もある。
 こちらは敢えて名前は出さないが、B党に反感を覚えているものの、B党の候補者であるイ氏の言動に真摯さを感じられたので、イ氏に投票したという人がいる。
 党に関係なく、国を良くしてくれる人だと期待されているということだろう。実際、B党の支持率は高くないのに、イ氏に数万票も集まったという事実がある。
 こういう選択肢もあるのだ。

 選挙活動中は立派なことを言っていたのに、実際に議員になったら言動不一致、あるいは他の党へ移ってしまうということもある。
 そんな時はどうするか。直接、その人に抗議してもいいが、誰にでも出来るわけでもない。しかし、誰にでも出来る手段もある。
 次回の選挙で、その人に投票しなければ良いのである。

 参議院議員選挙であれば、任期は6年。3年ごと、改選という形で全議員の半分が投票にかけられる。
 衆議院議員選挙であれば、任期は4年。ただし、解散総選挙もあるので、いつ起きるか分からない。
 20代の人であれば、3年や4年はとても長いと感じるだろうが、60歳まででも40年、80歳までなら60年もある。
 今回の人は駄目だったが、次の人に期待する機会が何十回もある。
 あるいは党の方針や普段の活動を知って、応援するようになるかも知れない。
 あるいは新しい党が登場するかも知れない。
 実際、何度も落選しながらも地道な活動を続け、熱烈な支持者を集めて議員になり、党でも重要な役割を果たしている人もいる。


 好きなスポーツ選手や好きな芸能人のことになると、球場やコンサート会場に出かけ、あるいは経歴を調べ、趣味や嗜好を調べてプレゼントを送ったり、同好の士を広めることは珍しくはない。
 議員であれば国や地方の将来を担うことになる人物なので、プレゼントについては法律で限定されているものの、履歴や活動を調べ、あるいは演説を聞いてその人となりを判断するのは悪いことではない。
 情報を得る手段はいくらでもある。分からなければ、知っている人に聞けばよい。

 どうしても託せる人がいないというのなら、人里離れた奥地で密かに過ごすか、自ら立ち上がればよろしい。だが、そこまで出来る人となると限られるだろう。そうなると、託せるだけの人物を探し、託した後も放置せずに見張り、問題があれば抗議すればいい。
 主権者は国民である。
 国民が選ぶということを忘れてはいけない。 


#私たちの選挙


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