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個人的な孤独【創作】
不安
自分の生活に不安を感じずにはいられなかった。
ある朝は布団から出られずに、自分が過ごしていなければいけない一日のことを考えていた。それが今日ではないにしても、するべきことを忘れないのなら——そう考えて漸く身体を起こした。
ある午後は出かけられずに、決めていなければいけない進路のことを考えていた。その場所が少しでもそれを考える助けになるのなら——そう思ってから急いで支度をした。
ある夕方は椅子から動き出せずに、身につけていなければいけない技術のことを考えていた。一日に使えるだけの時間をそのために使った後でなら——そう自分に言い聞かせて重い腰を上げた。
ある夜は眠れずに、自分が覚えていなければならない、あらゆる約束のことを考えていた。この身体が生きているうちは——そう思ってみても、それに何の意味があったのか、もう思い出せなかった。
自分には自分の生活が見えなかった。自分の生活に不安を感じずにはいられなかった。
進路
自分には自分が何をしたらいいのかわからなかった。
自分に職業の見つけ方を教える人は言う、「自分がしたいことは何か、譲れないと思うことは何か、最初にはっきり決めておきましょう」と。
自分に親切な老人は言う、「年を取ってから後悔しないように、やり残したと思うことがないようにするんだ」と。
自分の就こうとしている仕事をしている人は言う、「この仕事があなたにとって本当にいい仕事かどうか、じっくり考えてみてください」と。
その度に答えになることを探そうとした。自分にわかったのは、自分がしたいと思うことしかしたくないということだけだった。
久しぶりで会った友人は、自分に就職先が決まった話をした。いつか社会に出て働く意味がわからないと話したこともあった。その友人の顔を見ながら、自分の進路の話ができなかった。何か口にすれば、自分がいつも将来を前に考える、突拍子もない空想が読み取られてしまう気がしていた。
自分には自分が何をしたらいいのかわからなかった。何か自分の名前も知らない仕事が、その勝手な都合のために、たまたま見つけた自分を引っ張って行ってくれればいいと思った。
話
誰かの話を聞く度に、その人にとってはもう何度目に口にする話なのだろうと思った。誰かに何か話す度に、その人にとってはもう何度聞いて耳慣れた言葉なのだろうと思った。
自分が初めて口にすることを、同じように初めての驚きに眼を見張って聞いてくれる人でなければ、話をする意味はないと思った。
ある日も、誰にとっても自分がそんな人ではない集まりに顔を出して、初めての考えを口に出さないように気をつけていた。会が閉じられ、駅までの道で互いの近況を聞き合った。改札で別れた後、自分の話し方にまだ小さな不安を感じながら、会の間ずっと自分の頭を占めていた考えが、綺麗に消えていたことに気がついた。
外見
自分の顔の中の気になる場所を、一度気が済むまで綺麗にしてみたいと思っていた。
街中で何かの雰囲気を纏った人を見る度に、自分がその顔になって人と話しているところを想像した。それを自分の数少ない友人に比べてみて、自分がそうなることは誰も求めていないと思った。
自分の専攻のことを人前で発表する機会が与えられた時、いよいよそれが来たと思った。準備の傍らで、気がつく限りの場所を綺麗にしようとした。
その当日、駅の中や電車で見る人が、皆自分より上手に見えるような不安を感じながら会場へ向かった。それが終わった時には、そんなことに使った時間を全て中身の準備に回せばよかったと思った。そうでもしなければ、やはり自分を綺麗に見せるに足る機会が来ることはないと思った。
記憶
それを忘れていたことも、自分には自分の記憶がもはや頼れなくなっていることの動かない証拠になった。
道を歩いていて、ふとそれが思い出せそうになることがある。本を読んでいて、それと同じ形のものに触れる思いがする時がある。
それが何だったのか——もう忘れてしまっていた。
間違え
自分には自分が何を間違えているのかわからなかった。
自分
人と話をしている間は何も考えられなくなってしまう自分が嫌だった。一人で黙っている間は、何か話している人を見て、自分だけがその不思議さに気がついていると思った。
偶に人と話をすれば、やはり何も考えてはいない自分に気がついた。
「自分ではもっと考えてたつもりだったんだけど……」
一人で黙っていた自分を守るためにそう言わずにはいられなかった。その度にきっと自分が嫌になった。
趣味
自分のわからないことを話している人を見る度に、自分にもそうして人に話せるものがあって欲しいと思った。
何を趣味にしようとしても、それを人に話すにはまだ足りないと思った。もっと上手になれば、もっと詳しくなれば——そう思っているうちに、そんなことを聞いてくれる人は、自分の前から行ってしまった。
学校を出て自分の色を選ぶ時、まだ人に話したこともないその趣味を、自分の色にするしかなかった。次第に周囲からもその色で見られるようになった。
自分には自分の色のこと以外は話せなかった。自分のわからないことを話している人を見る度に、自分にもそうして人に話せるものがあって欲しいと思った。
空想
自分にも眠れない夜に思い出す人の一人ぐらいはいた。
ある夜もその人を心に描きながら、根拠のないその空想の中に、自分のかつての、その人を知る以前に同じ気持で思った人の空想が生きているのに気がついた。今その人に抱く夢——それはかつて別の人に抱いた夢の、より幸福な続きを描いているのだった。
自分には、今までそうした人々の上に自分が求めていた、実体を持たない一人の空想の人物が見えるような気がした。
そんな空想を背負わせてしまった人にそのことを詫びたいと思った。その時にはもう連絡先も知らなかった。
評価
何の評価も与えられなくなった自分に気がついて、漸く自分の堕落した生活に向き合った。
悪くなった生活の徴候は至る所にあった。それに一つ一つ組み合って行く度に、自分に与えられる答えは、ただ「違う」ということだった。
次第にどんな小さな穴も塞ぐ力が起きなくなった。それもいずれ「違う」には違いなかった。それなら何をしなくちゃいけないか——自分の生活は、いつしか同じ場所を後ろ向きに周り始めた。その円も段々小さくなって行った。
守るべき生活の何物もなくなった時、一日を呆けて過ごす自分の中にあったのは、ただ「空っぽ」ということだった。自分と同じ「空っぽ」に服を着せたような人々を、窓の外の遠くに見て、そして呆けて一日を過ごした。
その次の日は、どうしても出さなければならないものの締切だった。漸くそれが、自分が「空っぽ」になるまで捨て切れなかった生活だったと気がついた。泣きながらその準備をし始めた。
眠気
眠気が重くなると布団から身を起こして、今夜のうちに何を考えなければならないか思い出そうとした。そんな時間まで眠れなくさせている原因がわかれば、何の憂いもなく眠りにつけると思っていた。そう思っている頭が何の脈絡もない映像に占められて、漸く諦めて布団に横たわった。
寝ている間も何度か上半身だけを起こした。夢の中で、自分の頭は眠る前に考えていた形を見つけようとしていた。
眠りが浅くなると、起きて考えなければならないと思いながら、眠気に引き倒されてはまた一時間程を眠った。漸く昼に近づいた頃、眩しさに眼は覚めながら起き上がることができなかった。自分自身のために起きることができないからだと思った。そのことも起きて考えなければならない理由に呑み込まれて、それはまた一つ大きくなった。
疲れた身体を電車に乗せていた。自分には待っているものが何なのかわからなかった。その駅の名前が呼ばれたとき、降りる駅と同じでも自分が降りてはいけない別の駅のような気がしていた。
部屋への帰り道を歩いていた。自分には見ているものが何なのかわからなかった。花や道路や車を見る度に、その名前がわからないうちはいつまでも自分の部屋へ辿り着けない気がしていた。
風呂で身体を洗っていた。自分には擦っているものが何なのかわからなかった。何時まで経っても減らないそれが、泡になって消えるまで洗っていなければいけない気がしていた。
布団でスマホを見ていた。自分には流れているものが何なのかわからなかった。画面の中の誰かが喋り終えるまで、自分の不吉な考えを口に出してはいけないような気がしていた。
雨が窓を打つ音がしていた。自分にはそれが何なのかわからなかった。自分を包んでいる、小さな艶を持った太鼓がそんな風に鳴っているような気がしていた。
(了)
Photo: Yo TAKANO