待ち合わせ【創作】
時計の針がカタリカタリと動いている。もう一時間もしたら家を出ないといけない。それなのに顔を洗ったあと椅子に座った姿勢から、どうしても動き出すことができなかった。
机の上には黒いポーチに入った化粧道具がある。いつも閉じていない口の中の、雑に詰め込まれたコスメ。メイクをしたら着替えて、荷物を準備しないといけない。天気がいいから、汗で崩れないようにもしないと……。時計がやはり同じ速さで進んで行く。もう一分たった。
「まただ、また……」私は今朝眼を覚ましたベッドの上で、起き上がれないまま感じていた嫌な予感を思い出す。頭が重い霧のようなものに隔てられて身体が動かせなくなる憂鬱な時間を、それまでにも何度も経験したことがあった。そうなった時にはいつも、今日の約束をした人とは別の、一人の人のことを考えていた。しかし今はそんなことを考えている時間もない。
右手の指先にささくれができている。乾燥して固くなった、爪の横の皮膚を剥がす間に、また秒針は一二度文字盤を巡ったようだった。
急がなくちゃいけない。昨日考えた支度の順番をもう一度頭の中で繰り返して見る。クローゼットの前に懸けた着て行きたい服、調べておいたメイク……。楽しみにしていたことはどれも雲に覆われたように気持と離れていた。それにもう全部の準備をするには時間が足りないかも知れない。「ああ嫌だ、嫌だ」溜息と一緒にそんな声が出た。
どうしよう、どうすれば間に合うだろうか。とりあえず遅れないためには何をしなくちゃいけないのか考える。しかしその度に思い浮かぶのは、今日の約束をした人の、自信なさげに此方を見て話す顔だった。すると必要な準備のひとつひとつが途方もなく重く思えて来る。
会って話していた気持のまま、出かける約束までしてしまったのが馬鹿だった。一人で考えてから返事をすればよかったのに、と約束をした日から今日まで変わらない後悔をまた繰り返す。それでも今から断るのはどうしても気が重かった。そんなことで気を遣わされるだけでも耐えられない、断って恨まれればバイトでも話さなくなるだけだという苛立ちが頭のどこかにある。それでも思い切れない、何かが気がかりなようなその気持。
スマホの画面が点いている。丁度そのことを考えている時に連絡が来た、そんな小さなことにも抵抗を感じながら手に取ると、「おはよう!」「今日楽しみだね」と絵文字の入ったラインが来ている。似合わない、浮かれてるんだなと思って「おはよう、珍しいね」と入れたのをやめて、スタンプだけ返す。文字だけの挨拶が持って来た空気から離れるように、背もたれを倒して伸びをする。「うーん」と声を出して見ても、今のが少しでも嬉しかったのか、自分ではわからなかった。代わりにまた動き出せない気持が立ち罩めて来る。
何もない部屋の天井を眺める。どこからかエアコンのファンにまじって、工事のような単調な音。私は今日着いてからのことを想像する。相手がどんな格好で来るのか、どんなふうに此方の準備に気がつくのか……。買い物の付き合いと言っていたのが単なる口実なのも知っている。そんなふうにはっきりと言えない誘いを断らなかったことに、どんな期待を相手が抱くのかも、私は知っている……。
そんな考えに背筋が寒くなる度に、どんな適当な服で行っても文句は言わせないという気持が強くなる。けれど自分で可愛いと思えないままの自分がその相手と会って話しているところは、想像するだけでも耐えられなかった。
やはり身体が動かせなかった。約束のために何か準備をするのも、最低限しかしないで行くのも嫌だった。どうして自分ばかりこんなことを考えなくちゃいけないんだろう、という思いが頭を擡げる。
ふと思いついて、バッグからいつもバイトに行く電車で読んでいる本を取り出す。十分くらいなら、それで出かける気になれば……。しかしもう表紙を開くことさえ億劫で、憂鬱だった。今日会わなくちゃいけない人とは別の人が、いつか読んでいたのと同じ表紙。しかし主人公が遠くを見ているその横顔が、何を意味しているのかわからなかった。
「嫌だ、いやだ」何をするのも嫌だった。考えるのも嫌だった。机の上の物がどれも歪んで見えて、ぐうっと圧えられたように頭が重い。私は手のひらで両目をふさいでいた。
どれだけ時間がたったのか、居間の扉が開く音がして、廊下に足音が聞こえる。とっさにポーチから化粧道具を取って鏡を覗き込んだ。ドアをノックする音。
「ねえ明、いつ出かけるの」
「——もうちょっと」
「私、そろそろ買い物行って来ちゃうから」
「うん」
「鍵、持ってるでしょ? 締めてから行ってね」
「——はい」
ドアは開かなかった。母の足音が遠ざかって行くのを聞いて、手に持っていたファンデーションを机に置く。
母親の乗った車が窓の外を通り過ぎてしまうと、途端に疲れたような気持が身体にのしかかる。スマホを持って、ベッドに倒れ込むように横になる。窓の外は暑そうな空。部屋の暗さに慣れた眼には、青空も雲も同じ白さに光って見える。見つめていると雲に輪郭が見え、日陰が見え、光が雲の反射と空の濃紺に別れて来る。それを見てから部屋に眼を戻すと、スマホの画面にも緑色の残像が重なっている。
出ようと思っていた時間までは三十分と少しだった。急げばまだ間に合うのかと思いながら、関係のない動画を探して見始める。画面の中で顔が好きなアイドルが話している。いつもならあの一人の人が話しているところとダブって見える、もう何度も見た動画。でも今はスマホを見ている眼と、眠気のようなものに占められた頭の中とが、何の関係もないように離れていた。額や頬のあたりが誰かの顔を借りているようにぼんやりしている。こんなことをしている間になおさら急がなきゃいけなくなっている、という声が頭のどこかでする。
どうしてこんなことになってしまうのだろう。約束した時間に出かけるだけのこともできないなんて、私はどうしても信じられなかった。もうそれは今日の約束をした人に対する感情とは何の関係もないことだった。それはもっと他の誰か、今この瞬間も会って話ができる筈の一人の人と話せていない気持だった。そしてそれを感じている自分だった。
無意識に触っていた小鼻にニキビができている。膨らんだところを引っ掻いて剥がすと爪の先が赤くなる。インカメで見た傷跡には血が滲んでいた。触ると肌の奥がじんと痛む。
何もしないで過ごすのも耐えられなかった。スマホを枕の方に放ると、ベッドの端に当たって床へ落ちた。重い頭を両手の上に支える。眠気のようなものはもう身体にも広がって、ベッドから起き上がれなくなっていた。
このまま何も考えない眠りに落ちて、起きた時には絶対に間に合わない時間になってしまえばいいと思う。汗をかいて出かけられなくなればいい、この時間と一緒に自分の身体も消えてなくなればいい……。「あーあ、もう」でもその頃には母が帰って来てしまう。今朝出かけると伝えた時には何も訊かなかった母が、今度は何か言って来たら? そうしたら何と答えればいいのかわからなかった。
それでもどうしても今日の準備はできなかった。どんなメイクをして、どんなセットをして、どんなに好きな自分になったとしても、それは出かけることを悩んでいる、今の自分を消し去ることだった。もしそこへ行けたとしても、そこにいる間は自分にこういう悩みがあったことを考えなくなってしまう。結局そこへは行けないとしたら、こんなことは考えるだけ無駄になってしまう。今この瞬間も何かを望んでいるはずの自分が、その時になれば誰に気づかれることもなく、なかったことにされてしまうのがつらかった。この瞬間の苦しさは何のためでもなく、あの一人の人の、そして自分のためのものだったから。
考えながら意識が途切れ途切れになっていた。眠りかけていたのに気がついて反射的に身体を起こす。ベッドにいる眠気を我慢できず椅子に戻っても、もう何もする気が起きないほど頭が疲れている。
床に落ちたままのスマホが光っている。一瞬今日のことかと思ったのとは違う、通知のアイコン。しかし顔が見えない写真の後ろ姿を見て鼓動が速くなった。座ったまま焦る手を伸ばしてスマホを取る。十時十分——その時間を私は見なかった。
「久しぶり! 元気?
あのさ、この前の映画に行くって話
ちょっとその日、バイトがどうしても入らなきゃいけなくなっちゃって
悪いけどまた今度」——
きっと嘘だ。どうしてわざわざそんな嘘つくの? とっさにそう思うと、その続きを確かめる気も起きずに、スマホは手から滑って音を立てた。まだ画面を上に向けている。そこにまた通知が来そうな気がして、眼に入れないように椅子を立った。
「あぁあ」馬鹿だなあ、何を期待してたんだろう。——じっとしていられずに廊下へ出た。やっぱり駄目だったじゃないか——誰かに思い切りそんな言葉を浴びせたかった。
また部屋へ戻る。転がったままのスマホ、放り出されたままの準備、暑そうなままの空。ドアの前に立っていると、頭がきゅうっと痛いように苦しくなる。
私は頭に浮かんで来る人の顔を振り払う。今は何も考えたくなかった。どこにもいたくなかった。
そしてふと思った。行けなくなった映画を今日これから見に行こう。街中で見かけた人が皆、誰に会いに行くのかと振り向かずにはいられないような、とびきり可愛い格好で。
「なんだ、ああなんだ、簡単なこと……」だって自分の好きな服を着て、自分の行きたいところへ行くのに、そうさせない理由はもう何が残っているだろうか? (了)
Photo: Kluuvikatu by Rista, Simo - Helsinki City Museum, Finland - CC BY.
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