黒い髪
僕が30代後半のころまで、ばあちゃんはまだ生きていた。
ばあちゃんは毎朝仕事に出かける僕を、玄関で見送ってくれた。
うちの玄関は広い。靴が好きな僕は、毎朝ていねいに時間をかけて靴を履く。そのあいだばあちゃんは、玄関の少し離れた場所に腰掛けて、僕のことをにこにこと見守っていた。
そのころの僕は、毎朝ばあちゃんがそんなことをするのがあまり好きではなかった。少しうざかった。母はばあちゃんに「毎朝そんなことするな」と言っていた。
ばあちゃんは90歳に近かったので、髪は白髪で、だいぶ薄くなっていた。僕はそのころ真っ黒な黒髪で、あれから10年経った今も薄くなっていない。ただ色はだいぶ白くなった。
ある日、ばあちゃんはいつものように腰掛けず、立ったまま居間から僕を見送った。座って靴を履く僕を上から見下ろして、小さな声で独り言のようにこう言った。
「髪が綺麗なねえ」
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