引っ越しの日
二十四歳の春、僕はついに、引っ越しを決意した。これまで住んでいたアパートから、隣の街のマンションへ。距離的に五キロメートルくらいの引っ越しで、小さな地方都市から、隣の小さな地方都市へという引っ越しだった。
それまでに住んでいたアパートは壁が薄く、昼も夜も、お互いの部屋の物音が筒抜けだった。どうかしたときには、隣の部屋の住人が、壁にもたれかかるときの、衣服がこすれる音まで聞こえた。
また、その壁の薄いアパートは、お風呂がトイレと一緒になったユニットバスだった。僕はこれが嫌いだった。あえて言葉を作るならば足裏潔癖性というやつなのか、用を足す空間で裸足になったあと、その足を湯船に入れ体ごと浸かるということが、どうしても嫌だった。あのトイレとバスを一緒にすることを最初に考えた人は、人間として何かが欠落しているのではないかとさえ思う。
そんなアパートだけど、僕は二年間住んだ。引っ越しには金がかかるし、いちおう二年ごとの契約だったからだ。つまり、二年間我慢して過ごした。なるだけ音を立てずに、聞こえてくる音に神経をすり減らし、一日の最後、湯船にゆったりと浸かる気分を味わうこともできずに。
新しく引っ越す先は、壁の厚いマンションだ。アパートかもしれない。アパートとマンションの区別はよくつかない。ただ、壁がコンクリートでとても厚いのは確かだ。もちろん風呂とトイレは別々になっている。
僕は数ヶ月前から何度もそのマンションの大家さんを訪ね、綿密に部屋の様子を確かめた。大家さんはマンションから歩いて十分くらいのところに住んでいる市議会議員だった。契約までに何度も訪問し部屋を確かめる僕に、大家さんは少し面倒くさそうにしていた。だけど、適当な気持ちで選んだアパートのせいで、僕は二年間不自由な生活をしてきたのだ。ここで妥協するわけにはいかなかった。
僕は、四月一杯で空き部屋となる、一階の角部屋を検討した。大家さん夫婦の奥さんのほうは「二階の部屋が空いていますのに……」と何度か言った(奥さんは妙に古くさい丁寧な言葉を遣うことがある)。ただ、僕にとって隣人と面するのが一方向で済む角部屋は、二階なんかより魅力的な条件だった。それほど僕は、隣人が立てる音にナーバスになっていた。
角部屋を検討することにした僕は、夕方から夜にかけて、その部屋を見張ることにした。今、その部屋に住んでいる人を見張りたいのではない。隣の住人がどんな人物なのか見たいのだ。例えば、隣の住人が生きのよさそうな男子大学生で、同じく生きのいい仲間をいつも部屋に呼んでいるようであれば、契約を結ぶわけにはいかない。
何度か、マンション横の空き地のような場所にクルマをとめ、隣の部屋の住人が帰ってくるのを待った。そして、三回ほど確かめた。だいたい十九時過ぎに帰ってくる隣の人物は、三十代中盤くらいのサラリーマンだった。1DKの部屋だから、独身だろう。見たところごく普通の男性だった。スーツを着ていて、茶色い皮のカバンを持っていた。シルバーのアクセサリーを身につけ、ギターを持っているような人ではないし、ジーンズの後ろポケットにドラムのスティックも刺さっていない。この人が隣なら、この壁の厚いマンションで、騒音に悩まされることはないだろう。これが僕の住居選定の最終チェックだった。僕は大家さんのところに行って、契約書にサインをした。
五月一日、引っ越しの当日。僕はレンタカー屋で軽トラックを借り、自分で荷物を運んで引っ越しをした。大して荷物は多くなかったが、恐らく軽トラックへの積み方の問題で、二往復することになった。オートマチック車限定の普通免許しか持っていない僕は、オートマチック・トランスミッションの軽トラックを借りた。今は、オートマの軽トラなんてのもあるわけだ。
朝七時から荷物の運び込み作業をやり、二回目の運び込みが終わったのは、だいたいお昼くらいだった。僕は軽トラの荷台に座り、コンビニエンスストアで買ったハムサンドイッチと、チャーハンのおにぎりをガツガツと食べていた。飲み物はペットボトルのお茶。よく振ってから飲めと書いてある、濃いお茶だ。
あっという間に食べ終わったあとタバコを一服していると、マンションの入口のほうから、若い女の子が入ってくる。年齢は二十代中盤、いや、落ち着いた雰囲気がそう思わせるだけで、もしかしたら二十一、二という年齢かもしれない。彼女は、首から僕が知っている一眼レフカメラをぶら下げていた。一眼レフというのは、撮影のためのレンズを写真の構図決定のためにも使うことで、ファインダーから見える像が撮影される写真の像と一致する構造を言う。たぶん。撮影用の光学系とファインダー用の光学系が一系統であるため、ファインダーから見える像が撮影される写真の像と一致する。そうすることで、特に近距離を撮影する際に、別々のレンズで構成されているよりも、見た目と写真の出来上がりに違いが少ない。だから最近の一眼レフ持ちは、やたらと料理の写真を撮ったり、花の写真を撮ったり、近距離を撮影するのだろうな。いやそんなことはないか。ただ、一眼レフがいいんだろう。なんとなくで。
女の子は恐る恐る、という雰囲気で新しく僕の住処となる部屋を覗き込み、中の様子を伺った。ドアは開けっ放しにしてある。女の子は荷物が運ばれた部屋の様子を知ると、少しうなだれた。僕は軽トラの荷台でタバコをもみ消すと(レンタカーだということを忘れていた)、女の子のほうに歩いて行き、声をかけた。
「どうかしました?」
女の子は、ジャージにティーシャツで汗ばんだ僕の様子、頭に巻いたタオルの様子を見て、また部屋の様子を見て、また僕を見て、上目遣いに「ここ?」というような表情をした。
「そう、今日から僕はここに住む」
僕がそう言うと、女の子はふうむと少し考え込むような表情をした。しばらくして、女の子はバッグからスマートフォンを取り出した。女の子は、簡単に言うと、森の少女、というような格好をしていた。詳しく説明するのは面倒なので避けるけど、以前大手通販サイトで見たことのある、「森ガール」と称した雰囲気のファッションだった。ちなみに、森ガールは山ガールとは違う。
女の子はスマートフォンでメモアプリのようなものを起動させ、そこに器用に文字を打った。すごい早さの入力で、僕はそういうところに心ときめくところがある。
【この部屋の写真を、撮らせてもらっていいですか?】
僕はふつうに、声で応える。
「いいけど、どうして? きみもこのマンションに住むことを考えてるの?」
女の子はまた、すばやい指さばきで文字を打った。
【いいえ、わたしはここに住んでいたんです。この部屋に】
僕は頷いた。
【色々とこの部屋には思い出があって、最後出て行くときに、記念に空っぽになったこの部屋を写真に撮っておこうと思ってたんですけど……】
「忘れてしまったと」
【そういうわけなんです。空っぽになったこの部屋を写真に撮って、いつかその写真を眺めて、初めてこの部屋にやってきたときのことを思い出したりしようと思ってたんだけど】
「でも、もう僕が荷物を搬入してしまったよ」
【それでもいいです。次の人が荷物を入れてしまった部屋。それでもいいです。中に入っていいですか?】
僕は「どうぞ」と言った。
女の子は、サンダルのようなブーツのような、フリルもついた不思議な森の靴を脱いで、部屋に上がっていった。僕は荷物の搬入で土足でずかずかと上がり込んでいたし、あとで綺麗に掃除すればいいやと思っていたので、部屋の床はかなり汚れていた。だから、「土足であがっていいよ」と彼女に言ったのだけど、彼女はやはり靴を脱いであがった。この部屋に土足であがるなんてとんでもない、とでも言うように。だから今、床が土足で汚れていることに、僕は少し申し訳ない気分になった。きっと彼女の森の靴下も汚れたことだろう。
彼女は部屋にあがると、そうだろうなと思う向きで、部屋の様子がうまく納められる、なんの変哲もない構図の写真を、三枚撮った。そしてそのままそそくさと帰ろうとする。
「待って、他に色々と撮らなくていいの? 例えば、こっちから撮った写真だとか、ベランダの様子だとか、キッチンの様子だとか、お風呂場とか。トイレ、は撮らないか」
ううん、と彼女は首を振った。
「でも、思い出なんでしょう? 思い出すためには、色々と材料が豊富なほうがいいと思うんだけど」
彼女はしばらく僕の目をじっと品定めするように見たあと言った。
【思い出すためには、材料はたくさんあったほうがいいってこと?】
僕は、何か自分という人間を見透かされたような気持ちになって、少し弱気になった。
「今の撮りかただと僕の荷物も映り込んでるだろうし、もうちょっと色々撮っておいたほうがいいと思うんだけどな」
彼女はその言葉を聞くと、ちょっと考えてから、またスマートフォンに文字を打った。
【だったら、このカメラをあなたに渡します。あなたが、何枚か写真を撮ってください】
彼女はそう“言う”と、首からストラップを外し、一眼レフを僕に渡した。
僕は迷った。何を撮ればいいのだ。
僕はベランダへ出、外の景色を眺めた。そんなに素晴らしい景色ではないが、他の建物に遮られているわけでもないし、遠くには、川にかかる小さな橋も見える。ちょっと素敵な光景、と言えるかもしれない。僕はその小さな橋を構図の中心にして、ベランダからの景色を撮った。彼女だって、この景色を何度も見ただろうから。彼女は、そんな僕の横で、特に感慨もないような表情で、カメラの先にある橋を見ていたようだ。
次に僕は何となく風呂場を撮った。「それはちょっとどうなの?」と自分でも思ったが、何となく撮らずにはいられなかった。思わず、この風呂に入ろうと、彼女が服を脱いでいるところを想像しそうになった。彼女にはきっと、水色の下着が似合う。森の下着かもしれない。そこまで想像して、あわててそれを打ち消した。この手の想像を見抜く女性の力には、侮れないものがある。
僕は風呂を撮ったあと、次にトイレに気持ちがいったが、やっぱりトイレはあんまりだと思って、撮らなかった。
【お風呂を撮るなんて、面白いことしますね。思い出すための材料になりますか?】
彼女はスマートフォンにそう打ち込んだ。僕は「うん」と頷いた。
結局僕が撮った写真も、ベランダから見える風景とお風呂場の写真、それと、リビング側からキッチンの様子をおさめた一枚だ。“豊富な材料を提示”するための写真としては、ずいぶんと説得力がない。僕は少し申し訳ない気持ちだったが、彼女はそんなことを意にも介していない感じで、僕から一眼レフを受け取った。
僕と彼女はしばらく部屋の様子を並んで眺めたあと、外へ出た。彼女はスマートフォンに文字を打ち始める。
【じゃあこのへんで。どうもお邪魔しました】
「よい写真が撮れたのならいいけど」
と僕は言った。
彼女は「大丈夫です」とでも言うように頷いた。そしてそのまま、すたすたとさっき写真に撮った橋のほうに去って行った。
彼女が去ってから、僕は部屋のなかに戻り、ものが溢れた床に座り込み、しばらく呆然としていた。
彼女は、口がきけないのだろうか。彼女は全ての会話をスマートフォンでやった。森からやってきた、スマートフォンで会話をする綺麗な女の子。彼女はきっと、森に帰って行ったのだろう。僕は気を取り直して、部屋の片付けを始めた。
部屋の片付けはそう簡単に終るものではない。僕は午後いっぱいの時間を使って、とりあえず、生活ができる程度までに片付けた。まだ色んなものが段ボールのなかに入ったままだが、夕方までかけて、とりあえず生活ができる感じにまでこぎつけた。僕は一息ついて、近くの弁当屋まで行った。正確には弁当屋ではなく、精肉店だった。しかし、以前隣の住人を確かめるために偵察に来たときに確かめた。その精肉店には、「お弁当」というのぼりが出ている。
僕はガラスケースの中に並ぶ色んな種類の肉の合間に、「からあげ弁当/塩からあげ弁当」という貼り紙を見つけた。店のご主人は、僕が明らかに「肉」を買いに来たのではないなと見てとると、「弁当?」と聞いてきた。僕は「はい、じゃあ塩からあげ弁当をください」と言った。
「五百万円ね」
と店主は言った。くすりとも笑わずに。僕は“五百万円”の弁当を買った。
ほとんど沈みかけた太陽が、あたりの景色をオレンジ色に変えていっている。僕は自分の部屋へ戻る道を、行きに来た道とは違う道にして帰った。少し遠回りになるかもしれない。マンションから弁当を売る肉屋までは、三分くらいの道のり。これから食べるこの弁当の出来によっては、ずいぶんお世話になるかもしれない。かなり値段は高いけれど。
ちょうど道のりの中間くらいのところに、小さな公園があった。何本かの木と、ベンチが四脚ほど置かれている本当に小さな公園で、どういう意図で、どういう組織が作ったものかわからない感じだ。この公園は妙に落ち着く。なにか、全てが特別ではないことによって得られる、落ち着いた佇まいだった。僕はベンチのひとつに腰掛けて、塩からあげ弁当を食べることにした。部屋に帰って、段ボールのテーブルで食べることも、滅多にない体験という意味で、捨てがたかったのだけど。
塩からあげ弁当はとてもおいしかった。からあげの衣は薄めで、塩味はきっちりときいていた。やきとり屋で食べる、塩のやきとりに似た強い味だ。量は、四年前の僕ならちょっとがっかりしそうな量だったが、今の僕にはこれでちょうどいい。
からあげ弁当を食べ終わってから、僕はベンチでタバコを一服した。最近、そろそろタバコを止めてもいいかなという気もしてきている。実際に禁煙をしたことはないのだけど。
部屋に帰ってきて、僕はトイレに入った。“大”のほうだ。初めて住む部屋でトイレの“大”をする。それは“小”にはない何か象徴的なできごとのような気がする。ちょっと犬みたいだけど、縄張りの主張といった本能的気持ちがあるのかもしれない。
僕は便座に座り、トイレのドアに向いて座った。そのときに初めて、ドアに地図が貼ってあることに気づいた。前の住人、つまりさっきの女の子が、貼った地図だろう。この地域一帯の、ごく狭い範囲の地図だ。地図には、赤いマジックで記された十個の記しと、一から十までの番号が記してある。そして地図には、メモ用紙がクリップで挟んであった。僕はクリップを取って、そのメモ用紙を見てみた。そこにはこう書かれていた。
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【次に住む人へ -おいしいお店- 】
1.カフェイチ(カフェ)
2.草庵(そば)
3.ラーメンけっこう(ラーメン)
4.たいあん(たいやき)
5.竹やぶ(おこのみやき)
6.亀寿司(すし)
7.真屋(カレー)
8.どんと屋(からあげ)
9.アージュ(イタリアン・ピザ・パスタ)
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どうやらおいしいお店の一から九が、地図上の一から九と一致しているようだ。僕はさっきの女の子のかすかな笑顔を思い出した。次に住む人のために、こんなプレゼントを用意したあの女の子のことをとても素敵だと思った。
僕は地図の八番に注目した。「どんと屋(からあげ)」それは、今日塩からあげ弁当を買った店だった。
「まるでからあげ屋みたいに書いてるけど、あそこは肉屋だよ」
素敵なことをするわりには、わりと情報の精度は適当かもしれないなと僕は思った。そしてふと、数字の割り振られていない星印が、ひとつ地図上に記されていることに気づいた。それは、今日僕がからあげ弁当を食べた公園だった。
メモには、一から九までの食べ物屋以外の情報はなにもない。でも、地図にははっきりと公園の印が残されている。このメモと地図は次の住人のために残されたものだから、なんの情報もない星印は、意図的な情報だ。でも、僕はもうこの星印の場所に何があるのかを知っている。それは、不思議に居心地のよい小さな公園。そして、あの女の子がここに印をつけていることを、とてもうれしく思う。
僕は、明日もまた、肉屋のからあげ弁当を食べようと思った。女の子が印をつけたあの公園で食べようと思った。そして、この街にやってきた記念に、公園の写真を撮ろう。なんの変哲もない構図で、景色がおさまるように。
いつか僕がこの街を出て行き、何年も、何十年も経って、心が枯れるような年になったとしても、この街に来た初日、スマートフォンで喋る不思議な女の子と出会ったことを、写真を見れば思い出すのかもしれない。
【思い出すためには、材料はたくさんあったほうがいいってこと?】
あの女の子はそう言った。
【そう、材料はたくさんあったほうがいい。僕はそう思うよ】
僕は彼女にそうメールを打ちたかった。思わず、齧られたリンゴマークのあるスマートフォンをポケットから取り出したが、彼女のメールアドレスなんてわかるはずもなかった。
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