とんとんとん なんのおと?
キーコ キーコ キーコ
鮮やかな黄色の鳥が、今あたしの部屋の洗濯ヒモに捕まり、ブランコのようにして遊んでいる。洗濯ヒモは部屋の壁から壁へ金具で繋げてあるので、本当にブランコを漕いでいるかのような音がする。
セキセイインコ。子どものころに飼っていた。彼があたしの部屋のベランダに迷い込んできたのは、一週間前のこと。なぜ「彼」とわかるかというと、彼はたまに「ぼく」と喋るからだ。彼はやってきたその日からあたしによく懐き、よく喋った。
『コンニチワ オリマスヨ~』
『ア~ ビックリシタヨ~』
『ハイ モシモシ~』
『ひゅ~ひゅ ひゅ~ひゅひゅ~ひゅ』
一番最後のは口笛だ。たぶん、この子が暮らしていた家の中には、口笛を吹く人がいるのだろう。
これまでに二度ほど、心温まる脱走インコの話を聞いたことがある。いずれも飼い主の元を脱走したインコが、保護された先で自分の名前、連絡先電話番号や住所を喋り、無事飼い主の元に戻るという話だ。あたしはその話がとても好きだったから、インコがやってきたとき、とても嬉しかった。
■
彼がやってきて八日目の夜、あたしは会社の仕事を定時で切り上げると、会社最寄り駅と自宅最寄り駅のちょうど中間にある駅で降りた。その駅の近くには、八階建てすべて丸ごと日用品や雑貨を扱うビルがあり、いつも人で溢れかえっている。あたしはペッドフードのコーナーに行き、インコ用のエサを買った。インコ用のエサには実に様々なものがあったけれど、目を引いたのは、おやつ的な扱いをされているエサだ。そのエサは、普通インコにあげるエサとは違う特別なエサらしく、青緑色をしたエサだった。彼がやってきたその日、あたしはとりあえず小さな鳥かごと、どこにでも売っていそうなインコのエサを買って与えていたのだけれど、今夜は特別に、この「おやつ」を与えてみようと思った。
キーコ キーコ キーコ
アパートの部屋に帰り着くと、インコはいつものように洗濯ヒモのブランコを楽しんでいた。ちなみに買ってきた鳥かごは利用しておらず、インコは部屋の中で放し飼いにしていた。部屋のそこかしこに彼のふわふわした羽毛や糞が散らばり、あたしが踏んづけた糞が、カーペットの上で醜く広がったりしている。
「さあ、このおいしいおやつをお食べ?」
あたしはカーペットの上に、買ってきた青緑のエサをばら撒いた。初日に買った普通のエサは、床の上のそこかしこで少しずつ残されている。もう、彼はあのエサに飽きたのかもしれない。
ブランコから羽ばたき、彼は部屋の中を二、三周うれしそうに飛び回った。それから青緑のエサの前に着地し、貪るようにおやつを食べながら言った。ついに言った。
『ボクノナマエハ ワサビ ワサビ』
「へー、きみ、わさびって言うんだ。ピリリとしているね?」
『ボクノイエハ トウキョウトトシマクセンカワ ニチョウメ……』
「江戸っ子なのね?」
『デンワバンゴウ ゼロキューゼロ ロクロクサンゴー ○○○○』
彼はついに、あたしが知りたい情報を教えてくれた。これであたしも、以前インターネットのニュースにもなったような体験ができる。やった。
「ありがとう」
あたしはそう囁きかけながら、彼の頭をつんつんした。彼はまだ、他に言いたいことがあるような顔をしているように感じた。でももう大丈夫。
「これだけわかれば、ジュウブンだから」
■
あたしは次の日の朝、会社に勤怠連絡を入れた。発熱のため休むと。
東海道新幹線に乗るのは何年ぶりだろう。確か二十八歳のときに乗ったのが最後だから、六年ぶりだと思う。博多、小倉、広島、神戸、大阪、京都、名古屋と通り過ぎ、やはり富士山を通過するときには、ぐっすりと眠っていた。新幹線に乗るたびに、富士山を眺めたいと思う。だけどいつも、ちょうどそのタイミングで寝てしまう。静岡に入るころまでは、あれほど熱心に外の景色を眺めているのにね。黒い布をかぶせた鳥かごの中のわさびも、ひとことも喋らず静かにしていた。
新幹線が東京駅に着いて、あたしはわさびが教えてくれた携帯電話番号に電話をした。七度ほど呼び出しがあって、相手が出る。火曜日、時刻は十四時三十分。
「はい、どちら様でしょうか?」
見慣れない携帯電話番号からの着信に、相手は少し警戒しているようだ。でも、その言葉の雰囲気から、礼儀正しい紳士のような雰囲気を感じた。
「突然すみません。実はわたし、たぶん、お宅のインコを預かっているんです」
「あっ、もしかして、わさびですか!?」
相手の声のトーンが、一段階上がった。
「そうです、わさびくん。自分でそう言ってました。それから連絡先の電話番号も」
「うわー、そうだったんですね。実は一ヶ月くらい前に家から逃げ出してしまって、ずっと探してたんですよ! 今どちらにおられるんです?」
「今は、東京駅です。福岡から新幹線で来まして」
「えっ、福岡から?」
「そうなんです。わたしは福岡に住んでいます。わさびくんは、福岡のわたしのアパートまで、やってきたんですよ」
「福岡まで……。えっ、ちょっと待ってください。あなたまさかわさびを連れてくるために、わざわざ東京までやってきてくれたんですか?」
「まさか、わたしは東京にたまたま用事があったんです。それで、ついでにわさびくんも連れてきたんです」
「そうだったんですか…… なんとお礼を言っていいのやら。でもなぜ、わさびが東京の子だってわかったんですか? 名前と電話番号だけで」
「彼は住所も喋りましたから。ボクノイエハ~って。豊島区にお住まいですよね」
「はい。豊島区の千川に住んでいます」
「これからお会いできますか?」
あたしと彼は、有楽町線の千川駅で待ち合わせをした。彼は東京駅までやってくると言ったが、あたしは池袋で用事があるから千川まで行くと言った。彼はひたすら恐縮していた。
田舎者だから東京駅から山手線に乗り、池袋駅で降りる。池袋駅で地下鉄有楽町線に乗り換え、二駅で千川へ。彼に指定された出口から地上に出る。
「鳥かごを持った女性なんて、すぐにわかりますよ。そこにたまたま二人いない限りね」
電話口でそう言ったとおり、彼はすぐにあたしを見つけた。五十歳くらいの、素敵なおじさまだ。ちょっとワルそうな顔をしているけれど、とても真面目そうで、優しい目をしている。白髪が半分混じった短髪をゆるやかに後ろへ流し、白のシャツ、茶色のズボン、コンバースのスニーカーを履いていて、左手にはたぶん、HTCのスマートフォンを持っていた。
「ほんとうにありがとうございます」
彼はそう言って、深々と頭を下げた。
「いいんですよ。以前テレビで、インコが自分のことを喋って飼い主の元に戻るってニュースを観たんですけど、まさか自分がそれを体験できるなんて思ってもみませんでした。すごく楽しかったです」
あたしはそう言って、鳥かごにかけてあった黒い布を外した。わさびは眩しそうに辺りを眺めたあと、目の前の男をじっと見つめ、ピィイ! とずいぶん鋭く鳴いた。
■
彼にわさびを渡したあと、あたしは千川駅から再び有楽町線に乗り、池袋へ向かった。彼は福岡からインコを届けにきたあたしにひたすら恐縮していた。準備してきたのか、封筒に入ったいくばくかのお金を「これ、交通費として……」と渡そうとした。あたしはそれを断った。「会社の出張で来たついでですから。経費で交通費も落ちますし」と。そう言うと彼は、「では食事でも……」と言いかけたが、ナンパだと思われるのが恥ずかしいと思ったのだろう、言いかけて口ごもった。あたしは笑って、「ほんとにおかまいなく、大丈夫ですよ。わたしはわさびくんを届けにくるのが、とても楽しかったんです」と言った。彼は最後にこう言った。
「この子、何か変なこと喋りませんでしたか?」
「いいえ、別に」
あたしはそう言って、カゴの中のわさびくんに「バイバイ」と言った。
あたしにとって、池袋は特に懐かしい街ってわけじゃないけれど、それでも、東京そのものがとても懐かしかった。よほどのことがない限り、また住もうとは思わないな。そんなことを考えながらブラブラと歩くあたしの脳裏には、別れ際、わさびが発した最後の言葉がこだましている。
「タノム ユルシテクレ」
「タノム コロサナイデクレ」
それは、絞り出されたような声だった。わさびはあたしのアパートで名前や住所を告げたとき、もっと何かを言いたそうにしていた。それがこの言葉だったんじゃないだろうかと思った。
■
福岡からやってきた女性からわさびを受け取ると、彼はそのインコを、急いで家まで持って帰った。千川駅から彼の家まではものの徒歩一分だった。彼は自宅の玄関にインコの入ったカゴを置くと、下駄箱の上に置いてあった帽子をかぶり、すぐさま千川駅に引き返した。
駅のホームに着くと、女性が遠くのほうにいるのが見えた。彼女は三十代のように見えたが、まるで十代のように、たどたどしくかわいらしい喋り方をしたなと彼は思った。思いながら、彼は女性と同じ、池袋行きの地下鉄に乗りこんだ。池袋駅で降りると、ゆっくりとした足取りで西口に出る。先に電車を降りた女性は、ずいぶんと先のほうでゆったりと歩いている。彼は胸ポケットからタバコを取り出し、簡易ライターで火をつけかけて、やめた。今は何処も彼処も路上喫煙は禁止だ。
女性は池袋西口を出て、五分程度歩いたところにあるビジネスホテルに入って行った。彼は外から、フロントで受付の人と何やら話している女性を見た。予約でも入れているのだろうと思った。彼はビジネスホテルを通り過ぎ、とある店に入ると、急遽必要となった商品をいくつか買い、池袋駅に戻った。
千川駅に戻ってきた彼は、足早に自宅に戻ろうとした。けれどもたとえ徒歩一分の道のりでも、まわりの景色がそうさせてくれない。彼はとても繊細で、敏感な人間だった。街路樹の根元に生えている黄色いたんぽぽに心奪われ、パチンコ屋から出てきた哲学者のような痩せた男に見とれ、塀の上で思慮深くぼんやりしている明るい茶色の猫に話しかけたりした。
そのようにして彼は、自宅に戻った。
■
次の日の朝、彼の家では怒号が鳴り響いていた。
「てめえ…… 殺すぞ!」
ナイフを持つ彼の腕はわなわなと震え、怒りに凝り固まった首が振動装置になったかのように、その上にある頭は痙攣していた。
『テメー コロスゾ』
インコのわさびが真似をする。
彼はちょっと考えたあと、テーブルの上の台本に手を伸ばす。若いころはあんなに簡単に覚えられた台詞が、この年になると全然頭に入ってこない。役者としてそれほど売れっ子とも言えない彼は、台詞をしっかりと覚えて、ドラマの撮影現場に行くようにしていた。そういえば、あの女性は私を見ても何も気づかなかったなと彼は思う。無理もない。世間的には、悪役専門の三流役者だ。それも威勢がいいのはドラマの最初だけ、最後にはいつもやられてばかりの、チンピラみたいな役回りばかりだ。
『テメー コロスゾ テメー コロスゾ』
からかうようにわさびが言う。彼は気を取り直して、覚えられない台本を左手に持ち、再び台詞の稽古に戻った。
(トン…トン…トン)
「違うっ、これにはわけがあるんだ。俺はアイツに頼まれて……」
『タノマレテー』
(トン、トン、トン)
彼は玄関のほうに目を向けた。誰かがドアをノックしているような気がする。気のせいか?
「そんな…… こんなことってあるのかい……? こんな殺され方って……」
『コロサレカタ ッテー』
(ドン… ドン…)
はっきりとドアをノックする音が聞こえる。けれども彼には、稽古を中断する気はなかった。
「たのむ、許してくれ!」
『ユルシテクレー』
「たのむ、殺さないでくれ!」
『コロサナイデクレー』
(ドンッ! ドン! ドンドンッ!)
玄関のドアが、何か重い金属のようなもので殴られている。インコのわさびが、今までに聞いたことのない声色で喋った。
『アタシハ アナタヲ コロシニ キタノ』
たどたどしくて、とてもかわいらしい喋り方だった。
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